幸福の科学 真理問答   信仰心の維持 | たこなぐりの宗教ブログ

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宗教の古典の紹介
この世での生活状況

コーランで繰り返し説かれる「我、神、アッラーを信ぜよ」のセリフ。
ギータでもクリシュナへの信仰(バクティ)が何回も出てくる。
不信の心が出てくるから、どの宗教でも信仰心の維持が問題になるみたい。
地上で生きていたらやむを得ない。
死後の世界ってホントにあるの?
神はいるのか?

【管理人】
まず、第一点目ですが、先回の信仰心の程度を知ること とも関連しますが、 やはり、「道に精進してること」が信仰心の維持に必要ではないかと思います。 それも、その精進が「苦行」にならず、喜びになっていることが大事と思っています。 つまり、私は、真理を知ることによって、昨日の自分より智慧を得て悟りが向上したという自覚が、すなわち信仰心を高め、かつ、維持するのではないかと思っています。

私としてはKKの教学を学ぶことにより、世界の宗教の経典が言っていることがわかる。
KKなかりせば、読んでもわからなかったでしょう。

仏教の三宝帰依
①法に対する信仰
②法を説いている仏陀に対する信仰
③仏陀のもとで修行している僧団への信仰

KKは教祖も職員も信者も行儀が悪い。
私はアンチではないが、正直な感想。
心の修行やってんの?
*
 そこで、『仏陀再誕』の第6章の中にある「日々の発見 日々の感動」のところを読ませていただきます。

 仏のために、仏の教えのために、そして、自らが悟りを得るために、
 一時的に身命を賭すという気持ちになることは、
 そう難しいことではない。
 ただ、おそらくは十中八、九の人間は、やがてその感激を忘れ、
 平凡な生活のなかに埋没していくということだ。
 その感激を忘れ、その尊さを忘れた時、また自らも転落し、
 平凡なる河原にて、石を数えているということを忘れてはならない。
 
よいか、
 修行への道は日々の発見であり、日々の感動である。
 もし、そのようなものを感じなくなったとするならば、
 もはや慢心していると言わざるをえない。
 慢心したる者は、悟りへの入り口をくぐることはできないのだ。
 慢心したる者は、その門より追い出されることとなる。
 その門から転げ出、そしてやがて、
 元いた道を引き返さざるをえなくなる。

 諸々の比丘、比丘尼たちよ。
 およそ、人生の勝利とはこのようなものだ。
 一時的な決意は、すべての者がすることができる。
 しかし、その決意を堅持することは難しい。
 その決意を堅持することができた者は、
 さらに大いなる境地に達することができるであろう。
 その不退転の境地に達した時に、
 天も地もこれを祝うであろう。

とあり、毎日、何かを発見して感動することが、 自分の信仰心の維持にとって非常に重要な ことではないかと思っています。

あとがき
50年かけて悟り(発見)を積み上げていく。
同じ会社で数十年勤めて仕事をする。
その道のプロになる。偉いことだ。

あの世のことを忘れてしまう。
死んだら垢を落としましょう。
生きている間、心境は上げた方がいい。