ここ何件かで集中しているこの話題....
これは結局日頃の主張の「個人の勝手自由」の話しと近い。

これらは「法遵守」や「合理的重視」と一緒に手に入れたものだ。
これらは、「法に従ってさえいれば、何したっていい」人や「捕まらなければセーフ」の方々を増やす、素晴らしい社会を実現している。

そのようなモラルの欠如や脱法精神がさらなる法律と監視体制を連れてくる。
何といっても・・ 人を制御するのが法律しかないというのだから、そのような方々が取る手段とは、その様なものにしかならざるを得ないのだろう。(それどころか、そんな各個人は自分だけが正義の側だと思っている始末だ。)
そのようなセカイにおいて、強化されればされるほど.. 守らない人のメリットは拡大し、守る人の制限ばかり拡大していく。

・・・浅はかなセカイだ。

社会には(少なくとも日本には)、法律以外に自らを律するチカラが存在する。そしてそれこそが、世界(特に北欧)から日本人が評価されているものだ。
つまり、それを非現実的だと断念する姿勢も含め“日本人が日本人でなくてもいい”・・ 入れ替え可能な存在、そして社会を実現する。そしてそのような姿勢は、突き詰めていくと・・ “私が私でなくったっていい”ということに帰結するだろう。

多くの人が、それで構わないというのなら、それでしょうがない。
いずれ名前などつけるのをやめ、生まれた順に番号でも振っていけばいい。


かつて55では、日本人が評価されている部分をいくつか取り上げた。

【メキシコ五輪】
日本vsメキシコのサッカーの試合で、地元メキシコであるにもかかわらず、メキシコ人は試合の途中から日本を応援したという。それは日本チームのフェアプレイに賞賛してのことで、その大会後にFIFAは「フェアプレイ賞」を設けた。
【北欧での日本語人気】
フィンランドかノルウェーか忘れたが・・ 外国語の人気は日本語が1番人気だという。それは日本の礼儀正しさが大変に評価されているからだそうだ。
また、ロシアもある意味「北欧」を含む。ロシア人は日本人に大変に好意的だ。日本人の作ったものであれば、工業製品ではなくても、とにかくひいき目に評価するらしい。プーチンの武道家精神も取り上げた。
【阪神淡路大震災】
このときはとにかく、世界中で日本人は賞賛された。
地域がマヒしてしまっているのに、略奪やレイプなどほとんど発生しなかったという部分らしい。


「武士道が大切」の、『国家の品格』でも・・ 日頃の『ニッポン大好き陣営』でも・・ そのような部分を重視する姿勢は55と共通している。

しかし、このようなものの本質は、●国家がルールを取り決めなかったり ●価値観として強要されていない 
にもかかわらず、
各個人が進んでそれを守るまたは律することができる人たち
だということにある。

つまり、それを大事だと主張したところで、政治として取り上げるには無理があるわけだ。
こんなもの・・・ 守ったって、一銭にもなりゃしない┐( ̄ヘ ̄)┌
その通り!(そしてここからが自由主義との統合だ。)

ところが、ビジネスもそのほか全般の社会生活も、基本的にはルールに基づいて運営されている。
「ルールだけを重視する」のも、「ばれなきゃOK」も・・・ 実は、ルールがなければ実現できない。ルールを増やすことが、それを増やすということだ。そして実は、社会にはルールがないことのほうが圧倒的に多い。私は今、自宅でタバコをふかしながらこれを書いている。そして日頃、狭い小道を結構な速度で自転車で走り抜けている。これらは・・ 適用ルールなどない。
近所に実害を及ぼすほどの副流煙をまき散らしたり、対向車に一切構わず走り抜けたりするならば・・ そんな部分にルールが追加されるだろう。
小道の自転車に速度制限が設けられ、実際に監視体制がひかれたとして・・ ということは、速度以上の対向車は現れないことを前提とした秩序が生まれる。それを守らない人が現れたら・・ 逆に事故は大きくなるだろう。

また、「それを破る人は、ルールができても引き続き守る予定がない人だ。」という話しのように、ルール制定は日頃からそれを守っている人により効果を発揮してしまう話しもした。
どんなことをしても金儲けをしたい人は、つまりどんなことをしても金儲けをするんだ。
自分のキャリアを守りたい人は、自分のキャリアを守る。その手段が合法か違法かは・・ その人にとって重要ではないかもしれない。
どうしてもそこを突破しなきゃいけない理由がある人は、それが合法だろうとなんだろうと・・ そこを突破しなきゃいけない。

しまいには、高価な法律家を雇い、自身が進んで軽視した法律から自分を守ることさえ行う。
今が既に満たされている人らにとって、法強化はウェルカムであり、結局誰にとってより良い社会を実現しているのか・・・ という話しになる。
法律とは、それを利用できる人にとって「よりオイシイ」仕組みのことを言う。

ここから話しは遡っていく。
皆が個人の小さな悪意に手を染めなければ・・ ルールは増えていかない。
自動車の速度制限が実質無意味であるのにも関わらず、それが機能しているのは何故だろう?
実際、あまりスピードを出しすぎると危険だからだ。ただそれだけのことだ。
先日の駐輪場の話しも・・ 皆がエリアや通行の妨げにならないように停めていれば、ハナっからそんなルール(駐輪場)は必要がない。「ちょっとくらい通りづらくったってどってことないだろう...。」という思いが、それを作っている。そしてそんな当人達は、駐輪場ができると「ちぇっ」というだろう・・ 「おまえらのせいでそーなったんだっつーの┐( ̄ヘ ̄)┌」って話しなのに...。そしてそんな「ちぇっ」な人は、またうまいことルールをかわすんだろう。

ルールが人を制限しているんではない。
破る人がルールを作っているんだ。



55では、●ブラックサイト  ●ボーリングフォーコロンバイン  という映画について取り上げた。
これが私たちの目指している社会だ。

礼儀・道徳・フェアプレイ..... それら日本人らしさ(=各個人が自らを律する姿勢)こそが、自由主義を実現している社会だ。自由主義の場合、逆に皆が小さな悪意に手を染めていけば・・ 自ら食い合って滅びていける。
ところが、現行の流行りでいけば、小さな悪意に手を染めない人ばかりがバカを見る。
どちらがマシな制度なのかは言うまでもない。


※「じゃあ、どうすればいいのか?」を説明できていないという人もいるだろうか.... それは結局、より多くの人がそれを実感もしくは同意してくれることを期待するしかない。それでこそ、この話しが理に叶っている。