再読2019年8月8日『アマニタ・パンセリナ』中島らも | 前山和繁Blog

前山和繁Blog

てきとうな読書記録その他。勝手にどうぞ。引用などは作法を守っているのであれば、ご自由にどうぞ。

このごろ、過去に書いた記事の誤っている箇所が気になり始めてきた、直したい箇所もいくつかあるが、なかなかできないでいる。

英語学習の記事も時折書くことにした。

 

 

再読2019年8月8日『アマニタ・パンセリナ』中島らも

 

中島らもの作品の中には『今夜、すべてのバーで』もそうだったが反キリスト教思想が感じられる作品、表現が含まれている。それは意図的にやっているとしか思えない。中島らもは、聖書に書いてある善いこと悪いことを意識しながら意図的に、そのキリスト教思想への反抗として悪徳の表現をしていたのである。

 

しかしその悪徳の表現というのもあくまでもプロレス的な演技のようなものであり、観客である読者にまで累が及ばないような書き方をしている。ただキリスト教徒でない大部分の日本人には反キリスト教の表現というのは気づきにくく、分からない人は分からないまま見過ごしてしまうであろう。反キリスト表現の模倣をしなければならない必然性のあるキリスト教徒(が身近にいる)の日本人は少ないはず。私は中島らもファンだがファンであることと模倣するということは違うという実感もあらたにした。

 

アルコールも過度の飲酒はキリスト教からすれば、たとえ合法でもまぎれもない悪徳であるがゆえにこの『アマニタ・パンセリナ』にも取り上げられたのだろう。

 

日本の作家で反キリスト教文学が書ける立場にいる作家というのは日本にキリスト教徒が少ない以上、非常に少ないはず。私は昔、アントナン・アルトーの『ヘリオガバルス』やボードレールの『惡の華』を読んだがそれらについてはもはや忘れてしまった。しかしそれらは反キリスト教文学のはずである。中島らもは関西人としてというのか個人として他人を笑わせる才があるがゆえにかなりの数の読者がついた作家だったが反キリスト教作家という日本においては非常に珍しい立場にいたのである。

 

(私はほとんど聴いたことがないが)ビートルズやストーンズから反キリストの要素を抜き去ることはできないように中島らもからも反キリストの要素を抜き去ることができない。

 

私は日本人が書いたキリスト教文学というと田中小実昌の『アメン父』くらいしか読んだことがない。ただキリスト教徒の大学研究者の書いた本は何冊か読んでいるはず。キリスト教徒の文章というのは、それとわかる特徴を見せている人が多いような気がするが、分からなかったことも多かったかもしれない。

 

そして日本人が反仏教という表現形式で反抗をするのかというと、それはあり得ない。なぜかというと仏教において出家者は、まさに家から出て個人資産を持たない身分になった人であり、子どもをもうけてから出家する人もいたはずだが、出家している限りは子どもをもうけれらないのだから反抗してくる子どもというのがいないのである。それから仏教で定められた戒を破る人というのは単なる俗人でしかなく、ことさら悪というわけでもない。そう考えると仏教へ反抗する若者が反仏教の表現をするというのはあり得ないのである。

 

この『アマニタ・パンセリナ』は薬物については法の侵犯を意識しているがゆえの抑制された記述になっているが、笑わせようとしている個所が多くあり読んでいて面白い気持ちになれる。