再読『今夜、すべてのバーで』中島らも
1995年の頃に読んでいた(当時の価格は税込み500円だった)のを今になって読み返してみると、どことなしに反キリスト教的な雰囲気があるのを感じた。
酒に溺れる者を悪徳に染まった人間と解釈するという倫理はキリスト教にのみ見出されるわけではないだろうが、それでもこの『今夜、すべてのバーで』にはそれほど明示的ではないものの、私には、キリスト教の倫理から逸脱した反キリスト教的記述が、ところどころにされているのが感じられた。
キリスト教の倫理からすれば酒に溺れる者はパウロに言わせれば一緒に食事をしてはならない者である。もちろん詐欺師、強欲な者、みだらな者、人を悪く言う者、等も同様である。
作中には、過度の飲酒以外の悪徳が様々な人々によって行われている記述が多くされている。
キリスト教の倫理という視点でとらえるなら、けっして救いが来ないであろう絶望的な境遇にある人々が登場してくる。しかし、関西人的な、おかしみが感じられるような書かれ方がされているということもあり、それらの人々の絶望的な状況というのが深刻でないかのようにも感じられる。
その他、果たして中島らもがどの程度、意識していたのかは分からないが、神の奇蹟によって治るわけではないが足の悪い者までも作中に登場する。そういった部分にもキリスト教的なものを感じた。
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それからウィリアム・バロウズについても、バロウズは自ら、すさまじい悪徳に染まるという演出をしないかぎりアメリカ社会でキリスト教の倫理から逃れられなかった、という解釈もできるかもしれない。ほんのちょっとした悪程度ではそのうち悪人と思われなくなってしまう。自分を本物の悪人と解釈してもらうためにはどこまでも悪徳に染まり続けるしかなかったのだろう。そんな解釈に意味があるかどうかはともかく、そんなことが私の意識に浮かんできた。
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これが笑点の大喜利に中毒してしまったお年寄りが主人公だったら、何の悲劇にもならないどころか全く反キリスト教的な物語にはならないのである。(大喜利に中毒した若者が主人公でも同様である)
あるいはキクゾーラーメンに中毒してしまって、というのか食べすぎてお腹を壊した人を主人公にしたところで、やはり反キリスト教的な物語にはならない。表現者の側に反キリスト教という軸があってこそ、キリスト教の倫理に反抗する悪徳の物語が成立するのである。
エルヴィス・プレスリーは「みじめな状態でいるよりは意識を失っていたほうがマシ」(123頁)と言いながら薬物中毒に陥っていたという。しかし「みじめな状態でいるよりは大喜利を見て意識を失っていたほうがマシ」と言い出して大喜利に中毒する者がいたとしてもそれは何の悲劇にもならないのである。
反抗する人というのは倫理というその人にとって厄介に感じられる理想に反抗しているのであって、無目的に人を面白がらせようとしているのではない。
父親が無教会派、奥さんがカトリックというキリスト教徒が身近にいた中島らもであるがゆえにキリスト教徒からすれば倫理から逸脱した物語を意識することができたのだろう。そう考えてみるとキリスト教徒でない日本人にとって異質に感じられる部分が多い作品である。
それから学生運動をやっていた人向けの記述があったのも確認した。(148頁)
そういう人たち向けでもある。