先日、当ブログの記事に、「基礎が一番大切である。そして、その基礎は基本書や判例集を読み込む中で身につく。君のような問題演習中心主義という付け焼き刃では司法試験には対応できない。私のロースクールの友人は君のような勉強をしていて三振した」という趣旨のことを弁護士の先生から言われたというコメントをいただきました。

本記事では、これを批評することを通じて、基本書の必要性について探って(完膚なきまでに叩きのめして)いきたい。



1.「基礎が一番大切である。」について

ほとんどの合格者が、同趣旨のことを言うし、まあ私も「一番」かどうかは別として、大切だとは思う。

が、「基礎」とは、具体的には何を指すのか?これが、話者によって異なる可能性が充分ある。

ただ、条文は「基礎」に含まれない、と考えている人はいないよね?さすがに。

以下、“「基礎」⊃条文”を前提に考えていく。



2.「そして、その基礎は基本書や判例集を読み込む中で身につく。」について

「基礎」とは具体的に何を指すのかを確定しないと、検証しようがない。

ただ、“「基礎」⊃条文”とすると、

「条文は基本書や判例集を読み込む中で身につく。」

ということにもなる。


…本当か?

基本書・判例集には、条文自体を全くと言っていいほど載せていない。

六法と見比べて読め?ああなるほど分かりました。

あれ、この条文のこの文言の説明がないんですけど?

条文注釈書(コ(ン)メンタール)読め?…ってことは、基本書・判例集だけでは完結しないんですね?

え、条文注釈書って、凄まじい冊数あるし高価なんですけど、買って全部読まなきゃいけないんですか?

しかも、条文ごとの注釈は書いてあるけど、どういうふうに複数の条文を使い分けるかとか、どういう場面でどの条文を使うのかといったことは書いてません…これでどうやって問題を解くんですか?

具体的に、これを使って問題を解く“プロセス”を説明してください!


まあ、百歩譲って、基本書等には、その著者の主観的基準で選別した条文の“内容”が、その著者の主観的基準で“分かりやすく”説明してあることは認めてもいいだろう。

しかし、本試験では、条文を“分かりやすく”噛み砕いた基本書等の持ち込みは不可。

論文本試験では、“分かりやすく”噛み砕かれる前の、ゴツい条文そのものしか参照できない。

だから、条文を分かりやすく噛み砕いた説明を基本書等で学んでも、本試験合格という観点からは、せいぜい間接的付随的な効果しか生じない(どころか、私はむしろ有害とすら思っている)。


もう1点、異なる側面から批評する。

上記発言をした弁護士の先生は、その「基礎」なるものが、本当に基本書等“によって”身についたのだろうか?

まず、そもそも「基礎」とは何かを確定していないし、「身についた」というのも不明確なので、その間の因果関係の検証は、少なくとも現段階では不可能だ。つまり、そのような検証をせずにした発言にすぎない。

そして、たとえば、合格直前の1年間に基本書・判例集読みしかしていない(これも疑わしいが)としても、それ以前にした問題演習等の効果が、遅れて出てきた可能性もある。



3.「問題演習中心主義という付け焼き刃では司法試験には対応できない。」について

「付け焼き刃」って、一時の間に合わせといった意味は共通しているみたいだけど、一時の間に合わせで何が悪いのか?まず本試験に合格しなきゃ、その先の未来は開けないのだから。

そして、「問題演習中心主義」は、本当に「付け焼き刃」なのか?

私は、平成17年度の旧司法試験合格直後の司法修習で、いきなり、簡易化した事件記録から、一切書き方を知らない判決書等を起案させられて、わけも分からずびっくりした経験があるんだけど、これも「付け焼き刃」?

法曹実務でも、事件解決というのは、少なくとも基本書・判例集を読むよりは問題演習の方が近いと思うのだが、事件解決も「付け焼き刃」?


また、司法試験「には」対応できないという言い方(厳密にこのような言い方をしたかは分からないので、やや揚げ足取り)からすると、問題演習中心主義で他の試験には対応できた実例が、身近にもあるのではないか?

もしそうだとすると、他の“試験”に対応できた問題演習中心主義が司法“試験”に類推できる可能性、あるいは問題演習中心主義の射程が司法試験にも及ぶ可能性はあるのでは?



4.「私のロースクールの友人は君のような勉強をしていて三振した」

「ロースクールの友人」の勉強や、「君」の勉強を、常に目を離さず全て把握していたのだろうか?

仮に把握していたとしても、そのような勉強の「ロースクールの友人」に対する効果は、「君」に対する効果と同視できるのだろうか?個人差があるのではないか?

仮に同視できるとしても、「君のような勉強をしていて三振した」「私のロースクールの友人」は、この発言だけからすると、たった1人にすぎない。



…上記のようなツッコミを検討して、それでもあなたが基本書が必要だと思うなら、あなたにとっては、基本書は必要なのでしょう。

ただ、主観的な必要性を、あなたと異なる人格・個性を持つ他人に押しつけたりはしないでね?