マルクスの思想に、聖書の焼き直しという人がいるのです。
この人はマルクスの社会主義は聖書の焼き直しで、聖書は社会主義の本と言ってるのに等しいと気づいているでしょうか。
気づいていたら、言わないでしょうね。
キリスト教自体も、社会主義思想と運動を生んでいる。
北欧の社会保障制度は、キリスト教社会主義の成果という人もいます。
クリスチャンと言いながら、反社会主義を叫ぶ人はキリスト教社会主義も批判した。
批判の、対象です。
そもそも、反社会主義者にとって社会主義すなわちマルクスすなわち無神論の構図。
それは反社会主義の一面です。
クリスチャンを名乗る反社会主義者は、自分たちの聖書解釈と違う人々として批判したのです。
当然、クリスチャンを名乗る反社会主義者は、キリスト教社会主義も批判するのです。
マルクスの思想が聖書の焼き直しに見える人から見たら、クリスチャンを名乗る反社会主義者は聖書の誤解者。
ところが、そういう議論は聞いたことないです。
要は、反マルクスの議論さえ展開できれば良い人たちですから。
マルクスの思想が聖書の焼き直しに見える人には、クリスチャンを名乗る反社会主義者に反キリストと言って欲しい。
聖書は、社会主義の本と言ってるのに等しい人たちですから。
コーランは聖書の続編として編まれた書です。
日本共産党がイスラム諸党の会議でオブザーバー発言しても浮かないわけですね。
日本共産党を、イスラム諸党の会議にオブザーバー招待したのはイスラムの方ですから。
コーランは、ユダヤ教徒やキリスト教徒を、教えから外れたと批判してます。
ユダヤ教徒やキリスト教徒が、聖書の持つ社会主義的志向から逸脱したということでしょうか。
イスラム社会は、聖書とコーランの求める社会主義的実践を模索しながら進んでいる側面はありますから。
日本共産党が、マルクスとエンゲルスの原点に立ち返って探求している社会主義も、聖書とコーランの延長線上にある。
そう思えば、ムスリムが日本共産党に違和感を覚えないだけでなく、意見を求めるのも納得できます。