質問
初めまして、こんにちは。
本日の記事とは関係ないのですが、先日発売された
「別冊サンガジャパン」を読んでいて疑問があったので、コメントさせて頂きました。
今まではスマナサーラ長老の本を読んでテーラワーダ仏教を勉強していましたが、
雑誌内で紹介されていたプラユキ・ナラテボー師の記事に興味を持ちました。
調べてみると、教えられている瞑想方法がわりと特殊であると感じました。
西澤さんのコラム内の「正しい瞑想法、間違った瞑想法」を読みましたが、
プラユキ師の瞑想が経典に根拠があるのか、
正しいのか間違っているのか、私には判断がつきません。
もしよろしければ、教えて頂けると幸いです。
答え
チャルーン・サティは良く知りません。
wikiで見たくらいなので勝手なことを言えませんが、問題ないと思います。
経典に直接の記述はないのは間違いないと思いますが
手の動きに気づけば大念処経にある身随観ですし、
手の感覚など、苦、楽、不苦不楽などに気づけば受随観になります。
手は意識の集中を維持しやすい対象なので
初めての方や考え事が多い人などはお腹の膨らみ縮みよりやりやすいかもしれませんね。
ミャンマーはいろいろなヴィパッサナー瞑想の指導法がありますが、
手を動かすのを座って集中的に実践することは聞いたことはありません。
瞑想が深まってくると身体と呼吸が静まると言われてことが一つ
出家者が瞑想であっても手をいろいろと動かすのはあまり良く思われないというのが一つで
ミャンマー国内では批判される可能性はあります。
ミャンマーでスンルン・グーとテイン・グーの二つ瞑想法は鼻からの強い呼吸を指導していますが、
一部の長老は呼吸が静まるという経典の記述から離れているので好ましく思われていません。
身体、感覚、心、それ以外の法の四つを対象として無常、苦、無我を知るために実践していればテーラワーダ仏教的には問題ないでしょう。
今までの話はテーラワーダ仏教においての正しい正しくないの判断ですから、
テーラワーダ仏教にこだわらなければ何でもありですね。
アップデートした仏教でももちろん大丈夫です(笑)
その瞬間の心が、欲、怒り、無知から離れていれば良いだけです。