ショートストーリー880 | 丸次郎 「ショート・ストーリー」
「もう、迷わない。...私にとって何が一番大切なのか、分かったから...。」


夕暮れ近い9月の渚を、部屋の窓から見つめながら、柚希はそう思った。


半年ほど前、ドイツに留学した賢一とは今でもメールのやり取りをしているが、もはや柚希の心は以前と違い、冷めていた。


柚希は、つまらぬテレビを消すと、ブルーのパーカーを羽織ってドアを開けた。


秋の空は高く、いつになく冷たい風が音もなく頬をかすめてゆく。

柚希は編み籠のついた白い自転車に乗り、緩やかな下り坂になっている海岸沿いの国道を南へと向かった。



「どんなに嘘をついたって、もう私を騙すことなんて出来ないのに。...」

賢一は留学などしておらず、遠く離れた街で年上の女と暮らしていることを、柚希は風の便りに聞き、知っていた。


「危うく都合のいい女になるところだった。...バカな男。」


長い下り坂が終わって平地になると、柚希はペダルを漕ぎながら内心そう呟いていた。



柚希は最寄りの駅に着くと自転車を駐輪場に停め、渚岡行きの準急に乗る為、改札口へと向かった。


「私の腕時計、7分も遅れてる。...ギリギリ間に合って良かった~」

定刻より早くホームに入って来た準急に驚いた柚希は、駅構内の大時計を見てそう思った。


前から4両目に乗り込むと、柚希はある男性を見つけ、小さく手を挙げ微笑んだ。



改札口から駆け足で跨線橋を渡り、準急に乗り込んだ柚希の顔は、ほのかに紅潮し汗ばんでいた。

「よう...随分、息が上がってるね?」

柚希を見て、和敏が笑みを浮かべ言った。


「たまにしか会えないのに、私って、なんでこうドジなんだろう...。」

柚希は照れ笑いをしながら、心で呟いた。


次の駅で多くの乗客が降り、座席が空くと、和敏は柚希に座るよう促し、自らもすぐ隣りに座った。


向かいの席では、下校途中の高校生たちがスマホを見つめ、黙々とゲームをしていた。


「俺達の高校時代は、携帯もスマホもなかったけれど、その分、自分や他者と深く向き合えていたような気がする。...」


和敏は囁くようにそう言うと、さり気なく柚希の手を握った。



やがて終点の渚岡に到着し、駅を出ると、和敏は柚希の手を引きながら駅前ロータリーに停車している黒いワンボックスカーへと向かった。



「えっ、どういうこと?...和敏さん、あの人誰?」

少し不安に駆られた柚希が、和敏の手を自分のほうへ引っ張り言った。



「あれは、俺の姉貴。...この街の外れでレストランを義兄とやってるんだ。...夕食は、そこで食べようと思ってさ。...いいだろ?」


「うん、別にいいけど。...和敏さんって、結婚されているお姉さんがいたんだぁ。..てっきり、ひとりっ子だと思ってた。」


柚希は、ひとりっ子の賢一との付き合いが長い為、和敏と賢一を混同していた。


「ひとりっ子?...俺は二人姉弟だよ。...男勝りの気丈な姉貴だけどね。」


和敏は不思議そうな顔をし、そう答えると微笑んでみせた。


早速、車に乗り込むと、柚希は運転席の姉に挨拶をした。


「和敏、こんな可愛いコ、よく見つけたね!..今度は大切にするんだよ!..姉ちゃん、応援するからさ!」


「余計なお世話だよ。姉貴は、ひと言余計なんだよ。」


和敏の姉が嬉しそうに言うと、和敏は、やや不機嫌そうな口調でそう返した。



レストランへと向かう車中、後部席の柚希は流れる景色を見つめながら、先ほどの姉の言葉が気になっていた。


「今度は大切にするんだよ...って、どういうこと?....今の優しい和敏さんからは想像もつかないんだけど。...交際が長くなって慣れてくると、私も過去の恋人たちのように、だんだん粗末に扱われるようになるのかな?...」


車窓に映る和敏の横顔を見つめ、柚希はそう思った。



シーサイドラインを2kmほど北へ走ると、和敏の姉夫婦が経営するレストランがその姿を現した。


西洋風のお洒落な外観が、ひと際目を引くそのレストランは、すでにお客の車で駐車場が満車になっていた。


「さぁ、着いたわよ!...え~っと、誰だっけ?」


「柚希です。」


「あっ、そうそう!柚希さん、遠慮しないで存分に食べていってね!」


「あっ、はい...。」


車から降りると、和敏の姉が威勢のいい声でそう言い、店へと入っていった。


その間、和敏は何も言わず、黙って柚希の背中を押し、店へと歩いていった。


店の奥にある特別室で、柚希と和敏は、二人だけの時間を過した。


多弁でマメで気の利く賢一とは対照的に、口数が少なく、なんとなくぎこちない和敏だが、決して冷たい訳でも、ぞんざいな訳でもなかった。


むしろ、そんな和敏だからこそ、今の柚希にとっては安心できる存在なのであった。


「ねぇ?和敏さん...今まで付き合った女性とは、なんで別れちゃったの?」

車中で和敏の姉が言った言葉がひっかかり、柚希は何度もそう訊きたい衝動に駆られたが、その都度、冷えた白ワインで不安を胸の奥へと流し込んだ。



「この人は、賢一とは違う。...きっと大丈夫。..きっと...。」


向かい合う和敏の瞳を見つめ、そう願う柚希であった。。。。











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