近況報告 & 五輪塔あれこれ | 日中韓文化地めぐりのブログ

日中韓文化地めぐりのブログ

日中韓のお寺や観光地を巡るブログです。

 

 

 

 

 

近況報告

 

 

 

  こないだ、石清水八幡宮に行きました。まずは近況報告から

 
 
 
 

 

 

 

   石清水八幡宮は、山の上にあります。まあでも、それほど高くはないし、参道の階段もきつい方ではありません。

 なので、体力回復のバロメーターを測る意味で登ってみたのです。

 
 

 

 

 

 

 

 その時は やや苦しいかなとは思いつつ、普通に登れました。しかし、次の日以降、2~3日呼吸が苦しくなり、「気胸再発か!滝汗 あせる」と思いました。

 で、レントゲン撮って診てもらったところ、異常なし・・・・ホッ ためいき*としましたねえ(^▽^;)

 

 正直人生最大のホッでした。仕事は3月後半~4月前半が一番忙しく、1年の勝負の大半もこの時に決しますから、この時期に仕事を休めば この仕事を辞めなければならない状態に追い込まれますからね。

 

 あと、以前に体力回復70~80%とか書きましたけど、結局そこまでは まだまだ回復できていないんだなあと。

 いや、体力はまだマシなんですが、肺の状態がやはり病気前の50%以下な気がします。

 こんな状態で果たして長期旅ができるのかはてなマーク ちょっと弱気になってしまいましたショボーン

 

 

 

 

 

 

 

  そして車。前回、デジカメ終了の話を書きましたが、車の方もそうなるかもはてなマークですね。現在、走行距離が40万kmを超えてますが、少しエンジンの調子が悪いというか。

 こちらも買い替え時かもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

  最後に、我が家の梅。もう老梅で、以前に寿命が来たと言われたこともありましたが、今年も美しく咲いてくれましたねニコニコ

 
以上、近況でした
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 

石造五輪塔あれこれ(興味のない人は、スルーしてください^^;

 

 

 

 

石造五輪塔の魅力に目覚める!

 

 

 

   八幡さんに行ったもう1つの理由は、やはり五輪塔。そう、また五輪塔ですw 姫路城整理がまだなんで^^;

 

 
 
 
 
 
 
  石清水八幡宮五輪塔(重文、鎌倉時代中期、高さ約6m、花崗岩製) 
 
 この五輪塔は、自分が石の五輪塔を好きになったきっかけの塔でした。
 シンプルな造形美と、高さが6mという、圧倒的な存在感を備えたこの五輪塔は、石の美術品を見る魅力を教えてくれた塔でしたね。
 
 
 
 
 
 
 
 
中国・南宋の石工集団と、技術革新
 
 
 
  神宮寺墓地五輪塔(八尾市、鎌倉時代前期、凝灰岩製)
 
 ここで少し日本の石造技術について振り返ると、鎌倉時代に技術革新が起きてます。
 平安時代以前の石造品は、固い花崗岩よりも、柔らかい凝灰岩を使用したものの方が圧倒的に多いですね。
 これは、石を矢で割る「矢穴技法」が、鎌倉時代以前にはまだ定着してなかったからだと言われます。
 
矢穴技法については、こちら やじるし
古代においては、「」は使われてなかったのですね。
 
 
 
 
 
 
 
東大寺南大門 石獅子像(重文、1196年)
 
 平家の南都焼き討ちの後、東大寺再建に尽くした重源さんが、中国・南宋から石工集団を引き寄せます。それが、伊行末を筆頭とする伊派の石工集団でした。
 南大門の2体の石獅子像は、彼らの最初期の作品です。
 
 
 
 
 
 
 
  般若寺十三重石塔(奈良市、重文、1253年、高さ12 .6m、花崗岩製)
 
 そして、彼ら伊派の石工集団が、日本に矢穴技法を持ち込んだと言われるのですね。
 その結果、花崗岩製の丈夫で洗練された石造品が、鎌倉時代以降、急速に増え始めます。般若寺の巨大な石造層塔は、彼らの最も有名な作品でしょうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
石造五輪塔の歴史
 
 
 
 五輪塔は、類似のものは他にあるものの、日本独自の塔と言われます。塔を構成するのは、下から地輪、水輪、火輪、風輪、空輪ですね。
 
 これは、宇宙を構成する要素が地・水・火・風・空であるとする五大の思想の影響で、インド、中国を経て日本にもたらされました。 そして、日本の密教がこの五大思想をもとにして、独自にこの形態の塔を創出したと言われます。
 
 
 
 
 
 
 
 
  そして、石造の五輪塔が作られ始めたのが、だいたい平安時代末期頃。ほとんどが墓塔、供養塔として造立されたものですね。
 初期のものは凝灰岩製が多く、武骨で個性的な塔が多いです(写真は前回出した重文・当麻北墓五輪塔、平安末期)。
 
 
 
 
 
 
 
  東大寺伴墓五輪塔(重文、鎌倉初期、花崗岩製)
 
 鎌倉時代以降、いよいよ花崗岩製の五輪塔が多くなります。しかし、形は様々で、まだこの頃は形が定型化してなかったのでしょう。
 写真の五輪塔は以前に東大寺シリーズで投稿しましたが、重源さんの墓とされるもの。
 
 
 
 
 
 
 
 
 額安寺五輪塔八基(大和郡山市、全て重文、鎌倉時代後期)
 
 鎌倉時代も後期になると、形や比例が似通ってきます(特に近畿地方)。そして、五輪塔の形が最も美しいのも、この時代であると一般的に評価されますね。
 
 
 
 
 
 
  中でも一番左側にある大型の塔は律宗の大家・忍性さんの墓(写真)と言われ、実際にここから彼の骨蔵器が発見されてます(鎌倉市の極楽寺五輪塔も同様)。
 
 
 
 
 
 
 
雄大で美しい叡尊五輪塔
 
 
 
  体性院(西大寺奥の院)叡尊塔(奈良市、鎌倉後期、342cm)
 
  西大寺奥の院は、忍性さんの師・叡尊さんの廟所で、ここにもやはり多くの五輪塔があります。
 中でも写真の叡尊塔は特に雄大で、比例も抜群に良く、非常に美しい五輪塔として名高いものです。
 
 
 
 
 
 
  そして実際に見ても、やはり雄大で美しいですねえ音譜 完璧すぎて面白みがないという意見もありますけど(自分も2年前に、この塔よりも、武骨な当麻北墓五輪塔が好きだと書きましたが)、この塔が美しいことに変わりはありません。
 
 
 
 
 
 
 
  叡尊塔を離れた位置から眺めるの図です。堂々とした二重基壇の上に築かれた塔は、実に格式高く感じますねニコニコ
 
 
 
 
 
 
 
  その他の体性院の五輪塔群 やはり鎌倉時代後期のものが多く揃っていて、尚且つどれも美しい照れ
 
 叡尊、忍性といえば、ともに真言律宗の大家であり、彼らは重源さんが呼び寄せた伊派に連なる優秀な石工集団を抱えていたのですね。これらの五輪塔を見れば、それも納得です。
 真言律宗教団はその後、五輪塔をはじめ、多くの優れた石造品を日本各地で作っており、日本石造美術の歴史に大きな足跡を残したと言えるでしょう。
 
 
 
 
 
  それでは最後に・・・・2011、3、11の犠牲になられた方々のために合掌・・・・・
 
 
 
五輪塔話はつづきます