姫路城6「輝く大天守の白」 | 日中韓文化地めぐりのブログ

日中韓文化地めぐりのブログ

日中韓のお寺や観光地を巡るブログです。


 さて、天守群の中に入る前に、大天守の外観を見ておきたいと思います城

白鷺城」の名前で呼ばれるように、姫路城は絶えずその美しさが称えられてきました。自分も化粧直しされた大天守を見て「本当に白鷺が飛び立つような美しさがあるなあ」と思いましたね(≡^∇^≡)


 大天守の外観の美しさはどこにあるのか。色と形に分けて考えてみたいと思います。まずは色から。




輝く大天守の白



 
 化粧直しされ、あまりに白いことから「白すぎ城」と揶揄されることもある大天守。この白さに対しては賛否両論あるようですね。
 自分が姫路城に行った時も、「白くてきれいになったね~」という声がある一方、「もう少し落ち着いた方がいい」「ちょっと白過ぎる」という声も聞こえてきました。
 中には「ペンキ塗りすぎやな」という声まで! もちろんペンキは塗られてませんがw、そう思わせるほど白く輝いていることも確かでしょう。


紙スサの使用による白さ

 それでは、この白さは何に由来するのでしょうか? 1つは、よく言われるように屋根瓦の継ぎ目にも漆喰(目地漆喰)を施していること。
 しかし、ここで書きたいのは、漆喰そのものの白さについてですね。この白の輝きは、漆喰のスサに、特別に白い紙を使うことによって生まれるのだそうです。

 スサは塗壁材料に混ぜる繊維質材で、壁のひび割れ防止を目的とするものです。日本の漆喰に混ぜられるスサは主に麻と紙が多く、姫路城の壁の場合では両方使われているとか。
 例えば大天守の場合では、上塗りだけでも3回行われ、そのうちの2回が麻スサを混ぜた漆喰、そして一番最後の仕上げの1回において、紙スサを混ぜた漆喰が塗られるようです。




 漆喰の主要原料である消石灰(写真)。貝灰の場合もあり。日本の漆喰は、これらとスサ、糊料で構成されている。




16世紀、西欧人宣教師が見た輝く日本の白


 時は1565年、とあるヨーロッパの宣教師が信貴山城の白さを見たときの記録が残ってます。彼曰く・・・・・


「信貴山城の家は、塀や塔(櫓)にキリスト教国で見たこともないような、はなはだ白くて光沢のある壁を塗っている。この白さは石灰に砂を混ぜず、はなはだ白い特性の紙を混ぜることによる。
 ここに入って歩けばその清潔で白いこと、天国に入ったような感じがする。外からこの城を見ればとても心地よく、世界の大部分にこのような美麗なものがあるとは思えない。」

・・・・・とまあ、信貴山城の白さを大絶賛しているんですね。




 西欧では漆喰に砂を混ぜるので、そのことによって強度は増しますが、白さは減少してしまいます。これは、西欧の漆喰が、耐力壁保護を目的としていたので、ある程度強度が求められたのに対し、耐力壁の少ない日本では、そこまでの強度は求められず、逆に仕上げの美しさが求められたということなのでしょう。
 ただこの記録によって、当時からすでに、日本には驚くほど白くて光沢のある壁があったということが分かります。そして、化粧直しされた姫路城大天守のこの白さこそ、日本建築の伝統の白さだったことも分かりますね^^



この姿こそが、真の白鷺城



 予想を超える大天守の白さに戸惑いの声もある中で、修理担当者はこの姿こそが白鷺城と胸を張っそうですが、歴史的に見ても全くその通りだったわけですね。
 
 自分もこの白く輝く大天守を見て、大満足しましたグッド!グッド!グッド!






西暦1600年前後における漆喰の量産体制の整備と、海藻糊の登場
 (興味のない人はスルーしてください^^;)


安土城天守復元模型

 上記の信貴山城の建物が、どの程度漆喰を使っていたかは不明ですが、白漆喰総塗籠式の建物は少なかったと思います。この後、信長の安土城や秀吉の大坂城もまた、総塗込の建物は少なかったでしょうし、天守は全くそうではありません。
 それに対し池田輝政の姫路城は、大天守だけでなく、小天守らや多くの櫓も漆喰総塗籠式としており、当時としては革新的だったのではないでしょうか。





 このように、17世紀以降、城郭において白亜総塗籠式の建物が次々に登場してきますが、その理由は、防火・防水機能を高めるという実用目的の他に、美観や権威の見せ付けのためであったことは言うまでもありません。ただ、そのことが理解されていても、信長・秀吉時代は漆喰の量産体制がまだそれほど整っておらず、部分的使用に留まらざるを得なかったのでしょうね。
 
 それと、ちょうどこの頃、漆喰の糊料に、フノリのような海藻由来のものが登場したことも見逃せないようです。
 それ以前は米粥由来の糊料が中心だったようですが、それよりずっと安価な海藻糊の登場は、漆喰の大量需要に大いに応えたというわけですね(ただし、漆喰最古の使用例である高松塚古墳において、海藻の胞子が見つかっているという意見もあるので、全く無かったとは言えないかもしれませんが)。

 ともあれ、輝政が姫路城を築いた1600年代初期は、漆喰の量産体制が大幅に整った時期に当たり、これによって白亜城・白鷺城も生まれてきたと言えるでしょう。