集団的自衛権をめぐっては、まことに様々な解釈がなされており、完全に筋違いの論調や批判が渦巻いている。


そもそも何のために賛成するのか?反対するのか?という前提の議論が無いことが問題である。


根本的な部分が抜け落ちた状態で、単に賛成か反対かを決めることなどできないはずだ。




私は賛成の立場から話をするが、集団的自衛権がどうであるかという前に、まず我々が理解しなくてはならないことは日本の安全保障についてである。

それはどういうことかというと、日本の防衛力整備についていえば、


「日米同盟の活用」か「独自の防衛力整備」かの2つの選択肢しか存在しないという事である。


片方を選べば、集団的自衛権の行使というのは前提条件になり、もう片方を選べば集団的自衛権という言葉は使わなくて済むようになる。


集団的自衛権という言葉を使いたくないというのであれば、アメリカ合衆国との同盟関係を解消するほかない。

そして日本独自に防衛力を整備する必要がある。



ただし、今のレベルの安全を独力で実現しようとすれば、それは大変な負担に耐える覚悟が必要となってくる。


防衛大学校の教授2人が数年前にこれについての試算をしたところ、独力で今のレベルの安全を日米同盟抜きに実現しようとした場合、年間約23兆円の防衛予算が必要とされることがわかった。


これは当然、1年で済む話ではない。


10年、20年というスパンでやり続ける中でようやく防衛費を圧縮できるかという段階に差し掛かる。その間の負担に耐えうる覚悟がはたして日本国民にあるのか? 



そのような負担を腹をくくって受け入れようという国民性であったなら昭和30年ごろまでに行っていただろう。

そのような独自の防衛力整備は今に至るも実現していないのだから、これは今のところ非現実的であると考えざるを得ない。


戦後、日本の軍事産業は航空機産業を中心にことごとく米国に潰され、事実上独自の防衛力を築く術を失った。

しかし、戦後の日本は独自の防衛力整備の代わりに経済的な発展を選択し、そのために日米同盟を活用し、米国の傘のもとで経済力をつけるという道を歩んできた。


これはわかりやすく言えば、戦後という外科手術の過程で日本は利き腕、利き足の両方を切断され、義手・義足をつけることを許されておらず、米国という友人と肩を組んでいなければ自分で立っていることができないという状況である。


残念ながらまだ日本が米国無しに経済・防衛の面で自立できる状況にはない。


そうであるならばもう一つの選択肢、すなわち日米同盟を活用するのが良いし、それが現実的であるということになってくる。







次回は、日米同盟と集団的自衛権についての関係をお話していきたいと思う。