老師 愛の説教部屋 「まずは中心にいなさい」 | 地球の愛と光・本来の姿へ

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本来、人生を楽しむために生まれてきました。
ですが、恐怖、心配する価値観を教えられてきました。
恐怖思考が現実になります。恐怖を捨て愛と楽しい思考に!
年々、気が付く人が増え、本来の地球に変わる時期が来ています。
https://dreamgo.sakura.ne.jp/20110311/

老師 愛の説教部屋 「まずは中心にいなさい」

辛口の老師、お気になりました。下記は笑っちゃいました、素晴らしいお言葉です。ありがとうございます。

「引き篭もり系の連中なんかは、エネルギーがたまって腐りがちじゃからの、泣き言を言ってはすがりつく
吸血鬼のような人間や、鞭でぴしぴし叩いてこき使う支配的な人間に、「吸い取ってくれてありがとう」と感謝することじゃ。
それがいやなら、楽しみ方を覚えて、エネルギーの使い道を模索して欲しいものじゃ。」

http://www.geocities.jp/trans_human/dojo/roushi/r1.html  から


麿:次のテーマに移行するには、「楽しみなさい」というインスピレーションが盛んに来ていました。
 一方で、「特別なことをしなくていいから、ゼロ(真のニュートラル)を目指して今の場でがんばれ」というお言葉も。
 このへんがすんなり「落ちて」いかない葛藤が、私の中で引っかかっている部分なのでしょうか?

老:まさにそうじゃよ。
  「特別な行動をなさなくては自分の立つ瀬がない」と思う意識じゃからな。
  世の中を背負ったつもりになっておる、政治家・宗教家はもちろん、
  新しい運動を始めようとしているロハス系、ニューエイジ系のリーダーなどの意識がそうじゃ。
  その「特別な行動」に走ろうとする時の意識を、君らはよく観察しておるかね?
  表面的には時代をリードするような立派なことをいっておるが、本音は
  「自分が優位に立てるポジションを確保したい」とか、「認めてもらいたい、ほめてもらいたい」という、
  (の目)に力点を置いた意識じゃ。

麿:考えてみれば、「特別なことをしていない自分は虫けら同然」という極論にも繋がるわけで、
  周囲に対する差別意識に繋がりかねませんね。
  でも、これは今の社会で「もっと頑張らねば」と力んでいる人たちみんなに言えるんじゃないですか?

老:社会全体がその焦りから想念が沸騰して、パンク寸前じゃよ。
  ニートというのはの、その意識の対極にあるだけじゃ。
  そんな競争に身を投じたって何となく先は見えている。
  で、そのシステムに参加することを否定することで止まっておるから、かえって肯定にエネルギーを注いでいるわけじゃ。

麿:そこでうまくやっていけない自分は落伍者だ、と決めつけているからですね?
  
老:そうじゃ。
  焦ってがむしゃらに仕事に励もうが、沼底に沈もうが、同じことなんじゃよ。
  自分自身の視座は消え、他者を意識するあまり心底、楽しむことができないからそうなる。
  表面上がむしゃらに仕事している連中も同じなんじゃよ。
  「未来に軸をおいた楽しみ」といえるし、「英雄志向の残像」ともいえる。
  君たちは常に「中心」にあることを心がけるんじゃ。
  大きく動くと、その対象にエネルギーが注がれる。
  慎重に見極めよ。まずは動く対象を観察しておれば良い。
  そのためにそれぞれの「専門家」が存在しておるんじゃからの。

麿:私自身のエゴの消化には、私自身が新しい行動を起こして、行動から消化することも必要ではないのですか?

老:まずは大きなことを考えずに動け。
  楽しいものは楽しいものとして動けばそれで良い。
  大義名分を考えるからややこしいことになるんじゃ。

麿:そんな意識は抜けたつもりでしたが。

老:時代の方向性を見極めることは大事じゃ。
  もともと役に立たぬことなど君らには意識が向かんようになっておる。
  ただし、今までのことも、これからのことも、当たり前のことを「当たり前」としてやるんじゃ。
  精神世界系の人間にありがちなように、私生活が「やくざもの同然」では話にならん。
  ・・・だいたい人の世話や奉仕などといって励んでいる連中に限って、家庭は崩壊しとるからの。

麿:まず普段の生活でやるべきことをまっとうにこなせ、ということですね。

老:その当たり前のことができておる人間は少ないのう。
  日常生活が過不足無く淡々と回転し、意識のゆとりができた中で、次の新しい一手を模索し、
  できる範囲でトライしてみる。
  ・・・・そのゆとりの波動が周囲に良い影響を与える。
  「特別なこと」をやりたがる意識が自己不信のウラ返しだ、ということに気付きなさい。
  力むのをやめ、もっと淡々として楽しむコツを覚えなさい。
  自分自身も周囲の人間たちも、「変わらねば!」などと追い込むような方向に駆り立てなくても、
  誰もがひとりでに目覚めるようにプログラムされているんじゃよ。
  それを君たちはもっと信頼するんじゃ。
  自分が変われば周りも変わり、自ずから次の道が開ける。
  考えてもみたまえ。
  君らが日常生活の観察を通じて大過なく成長できた、という事実をなぜ信頼せん?
  特別な行動、大きなマイナス現象
(天変地異など)を起こさなくても変われるんだ、と実証している生きた見本じゃろうが?
  逆に君らがうろたえ騒ぎ、派手な動きに身を投じようとすると、利用されるぞ。

麿:判りました。ところで、私の中で歯を食いしばっている者が時々来ます。
  正直迷惑なのですが、いったいこいつらは何者ですか?
 
老:自己不信につけ込んでやってくる「般若
はんにゃ」的意識の連中じゃよ。
  「今すぐ行動を起こさなければ地球が危ない!」などと焦って燃えておる連中じゃ。
  焚きつけておいて、その動きに同調してこないと怒りの念を飛ばし、さらに燃えあがるんじゃ。
  その連中が自分の「焦り」にけりをつけてくれた方が、よほど地球にとってはありがたいわい。
  「今すぐ変わらないと危ない」のはおまえら自身のこと・・・という本質が見えておらんのじゃね。
  ・・・・・本当はの、こいつら、さびしくて構って欲しいだけなんじゃよ。
  「黙って見ていれば静かに周りが変わる」・・・道場の看板に書いておきながら
  君らが揺らいでおるようでは話にならんぞ。

麿:「中心に居よ」とおっしゃったのは、具体的行動はそれが得意な人たちに任せて、ということでしたね。
  私などが動き出すと、行動の鈍くささとバランスの悪さが前面に出て、いろいろと不都合を引き起こすからですか?

老:君も頑固じゃのう。何度同じことを言わせるんじゃね。
  先ほど君が読んでいた文献を復習しなさい。
  行動することだけに力点を置いている人間は、なかなかその境地にいけないものじゃよ。
  君たちに見本になってもらいたい、という我らの切なる願いをいいかげん判ってくれんかね。

麿:復習。

 「肉体・エゴ体中心の人生に違和感を感じることから、意識体が肉体との同化を解き始める。」
  (・・・まあ平たく言えば、物欲中心の生活に虚しさを感じて、心のあり方に関心が移るということ)

  まず肉体・エゴ体から距離を置き始める(客観視の始まり)。
  意識体が主人として収まるようになると、次第に、今まで主人の座にあった肉体とエゴ体は、
  付随する現象とともに対象化されていく。
  善悪・優劣などの二極分離現象は、その「対象化されたもの」に起きている現象、として冷静に捉えるようになる。
  これは、あくまで視点・・・自覚が変化しただけのことである。
  知ること、見ること、気付くこと・・・・・
  この連続によって隠れていたエゴはどんどん照らしだされ、浄化(源へ統合)されて、シンプルな波に戻る。

  こうしてエゴ体の純化と同時に肉体も純化が進み、細胞の波動が上がっていく
  細胞意識体の波動が上がることにより、エネルギーが通りやすくなり、最大限にエネルギーを保持して生かせるようになる。

・・・このように見ていくと、資本主義的な、たとえば金に対する恐怖や執着を脱するために、
  新しい行動をとろうとするのが間違いだ、とおっしゃるので?

老:そこも何度も言わせるな。
  たとえば「シンプルライフをする」などというのも、それを楽しみたいのならエエ。
  が、問題はそこに「力み」があることで、それは今ある境地に対する感謝の欠如・否定からくる。
  資本主義を善とする生き方の対極にまみれただけ・・・肯定も否定も同じじゃからね。
  つまり君の言う「マトリックス」の「ザイオン」じゃ。
  否定から出発すると、何事も戦いに終始する。
  何をするか、よりもそれを始める意識の視点の置き所が問題なんじゃ。
  ・・・・いちいち対極にまみれずに気付けるのが「想念観察」のいいところではないかね?
 
麿:その辺の消化は甘いですね。

老:そんなことより、「毒を食う」という想念に対するネガティヴな色づけを書き換えるために「楽しめ」といっておる。
  何を始めても、行き詰まるときは出てくるものじゃよ。
  面白いこともそうでないことも等しく楽しめるようになったら無敵じゃろうが?
  ニートの連中にいいたいが、金でも暇でも、それがあるなら、まず感謝して有効利用すればエエんじゃ。
  人の目を気にせず、自分が緊張せずに楽しくやれそうなものからトライして、少しずつ自信をつければ、
  その喜びの波動が周りに伝わる。
  物欲は悪、と言って、買い込んだ大量の服をごっそり処分して「リセットした」などとすがすがしい顔をしている女も、
  一年後には元の木阿弥になっている・・・なんてことはよくあるじゃろ?

麿:何かをやること自体やカタチにこだわること、じゃなくて、背景にある意識が問題なわけですね?

老:一番の問題は執着・・・物質の所有ではなく、「想念」の所有じゃ。それが現実を作る。
  不安や恐怖の想念を「自分のもの」として所有する意識
  ・・・まあこれは君の仲間もなかなか手放せないで苦労しておるものじゃがね。

麿:そういう意識の人でも、太らない人がいるのはなぜですか?

老:半分は切り捨てておるからじゃよ。
  君などは逆に、統合しているつもりで、まるごと所有しようと無茶をしていることがままあるよ。
  その基本にあるのは罪悪感じゃ。
  相手に対して、(つまり自分に対して)「悪いことをしている・苦痛を与えている」という錯覚がぬぐえないところからくる。
  相手も自分も一体、という認識がまだ甘いぞ。
  どっちかを善悪で色分けしないと済まない意識が、エゴに栄養を与え続けるんじゃ。

麿:私の客観視で穴になっている、今後留意すべき部分は所有と罪悪感ですね。

老:君だけではないぞ。
  君は、手柄を独り占めすることはあまり好まない一方、周囲で起きた「負」の現象の責任は、
  必要以上に自分でかぶる傾向にあるのう。
  どっちも結局同じなんじゃよ。
  それが「うぬぼれだ」ということにはなかなか気づけんようじゃが。

麿:所有に戻ります。
  想念を所有しないと、意識が「遍在」して、軽くなりますよね。
  力んで何かを訴え、行動しようとすると周りは変わらないけど、力を抜くと周りが変化する
  というのはこのこととどう関わりますか?

老:所有とは、周囲に起こる事象に対する善悪判断に由来する。
  善悪を判断しなければ、あるがままとなり、つかず離れず周囲に漂うようになる。
  「教祖系」の人間は「切り捨て」、君は「取り込み」なんじゃ。
  どっちも偏在からは遠いのう。

麿:もう少しヒントをお願いします。

老:君、さっきの文献読んだんじゃろ? ほんとうに教員なのかね?

麿:「流れてくる想念や周囲の事象に対して善悪判断をする」とは、好き嫌いをいうのと同じだから、
  「その波動世界にまみれる」ということになりますよね。
  ・・・・・そうか。
  「観察の連続によって隠れていたエゴはどんどん照らしだされ、浄化(源へ統合)されて、シンプルな波に戻る。」
  ・・・周囲の相手も、広い意味での自分ですよね。
  ということは、自分が観察者(意識体)の位置にあれば、周囲の人たちは「エゴ体」なわけだから、観察していれば、
  相手の想念とかも食らうわけだけど、次第に変化していくわけですね。
  否定したり、「仲間なんだよね」とかいってしがみつくと、逆にエゴに引きずられていく
  ・・・要するに、気付かないうちに自分の価値観の押し売りとか、古い価値観に染まっている相手を否定して引き上げよう
  とするようなことをしていたわけか。

老:・・・理屈で納得せんとだめなようじゃね、相変わらず。
  「素直になれない」ということは、意識体の意図に対して疑問を感じ、フィルターをかけている、
  ということじゃから、受信も発信も滞りがちになるんじゃよ。

麿:その境地を脱するポイントを、ひねくれ者で有名な老師にお尋ねするというのも野暮な話ですかね?

老:ばかもん。まじめにやらんか!

麿:さきほど「遊び心」とかおっしゃっていたのは師匠じゃありませんか?

  ・・・ところで「切り捨て」と「客観視」の違いは微妙ではないですか?

老:ニブイのう。
  だからさっきから言っておろうが。「所有」と「切り捨て」との関係について学ぶようにと。
  「嫌い嫌いも好きのうち」と何度言ったかね。
  どちらも同じことじゃ。切り捨ても所有も恐怖からくるんじゃ。
  想念に対する信頼があれば所有などせん。

麿:職場の人間関係で、私はかなりの「隔たり」を感じていましたが、ようやく少しずつ抜けつつあるようです。
  しかし、情で「ただ反対にぶれただけ」ということもあるので、そうなると重くなり、思い切り波動が下がります。
  この違いが感覚ではよくわからないのです。

老:理屈でわかろうとする悪い癖じゃ。
  所有の意識にまみれる(知りたい)ことで、時間がどんどん間延びするね。
  ということは「切り捨て」の場合はどうなるかね?

麿:「知りたくない」わけだから時が早くすぎるか、「時間がない」という焦りに駆り立てられるわけですか?
  でも、「切り捨て」も所有の意識の裏返しだから、やはり時間が延びるのではありませんか?

老:フリーズしておるんじゃよ。
  パタパタ動いている人間は、動きのわりには空回りばかりで成果がないじゃろ?
  実際は意識面では停滞したままで、成長を遅らせておるんじゃ。見かけに騙されてはいかん。

麿:やっぱり一番早道は、淡々とやることですか?
  間延びすることと焦りは同じなわけですね?

老:「時間」という幻にとらわれているから、焦ったり腑抜けたりするのじゃ。
  相手でもその世界でも、それを「知りたい」という疑問・・・ある意味不安・恐怖・・・これが時間を用意する。
  初めから「無時間」を意識するようになれば、あらゆるエゴ的事象は次々に片づいていくんじゃ。
  もうここまできたのじゃから、周囲の成長に対する貢献、ということも意識してほしいね。
  中心に居るんだ、という自覚をしっかり持ってもらいたい。

麿:つまり観察がまだまだ甘い、ということですね。
  一つお聞きしたいのですが、「与え乞食」になっしまいがちな私の傾向・・・これは今までいろいろな
  相手に対してさんざんやってきましたし、親切の押し売りやお節介は親の傾向でもありますが、結構気付かないものですね。
  これ、どんな不足感に由来しているのですか? これではなにをやってもうまくいかない。

老:安心の「所有」の意識と絡んでおる。
  君の親の世代にありがちな意識で言うとな、たいていの場合「閉じて」おるので、
  自分の獲得した心地よい思い出でも過去の痛み・苦しみでも、物質でも、いつまでも所有しておきたがるのじゃ。
  しかし、これぞ、と思った相手・・・つまり自分を構ってくれる相手には無制限で気を許し、放出してしまう。
  エネルギーのバーゲンセールじゃな。
  それを知っているので、こういう人間・・・リーダーとか政治家・教祖・・・の周囲には、その人間をほめたり、
  忠実な部下であるような顔をしたり、すり寄って理解者の顔をしたり、情をかけてもらおうと泣き言を言ったり、
  あるいは罪悪感を刺激したりするんじゃ。
  君に関してもその傾向はあるが、その辺の観察はまだかなり甘いぞ。
  だから君が受け入れたものからは常に吸い取られ、重くなるわけじゃ。
  いつも言うが、君らにとってマイナスの出会い、少なくともあまり利害の絡まないような相手との縁も大切にすることじゃな。
  
  まあな、引き篭もり系の連中なんかは、エネルギーがたまって腐りがちじゃからの、泣き言を言ってはすがりつく
  吸血鬼のような人間や、鞭でぴしぴし叩いてこき使う支配的な人間に、「吸い取ってくれてありがとう」と感謝することじゃ。
  それがいやなら、楽しみ方を覚えて、エネルギーの使い道を模索して欲しいものじゃ。

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