パラオ旅行記⑥(ペリリュー島にて) | いもっちゃんのブログ

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旅の思い出や食べ物について書いていこうと思います。

 こんばんは!!今回も前回に引き続き、8月にパラオを旅した時の事を書こうと思います!!まだ前回の記事を読んでない方は、1日前の記事をどうぞ!!


8月29日(水)

 この日は午前6時ごろに目が覚めたので、ツアー会社のスタッフの方がホテルに迎えに来る時間までの間、ホテルでくつろいだり郵便局に切手を買いに行ったりしてました。
 
 この日は第2次世界大戦の時の激戦地である、ペリリュー島の戦跡を巡るツアーに参加しました。午前8時50分にホテルのロビーでスタッフの方と合流し、ツアーの出発場所まで送ってもらいました。

 集合場所からはボートに乗り、コロールから約1時間ほどでペリリュー島の北波止場に到着しました。


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 北波止場からはバスに乗って、ガイドさんと他のツアー参加者の方々と一緒に島内にある戦跡を巡りました。

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こちらは日本軍が作ったトーチカです。

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ペリリュー島ではそれまでの水際作戦ではなく、洞窟に立てこもってのゲリラ戦が行われました。この穴はその時作られた日本軍の千人洞窟です。熱気と湿気がこもる洞窟の中に入ると、宴会をした後と思われる酒瓶や治療室などがありました。

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こちらは日本海軍の指令本部跡です。

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米軍による激しい空爆を受けたため、天井の至る所に穴が空いてました。

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 こちらは日本軍の3人乗用の戦車ですが、後に紹介する米軍の戦車と比べるととても小さかったです。しかしペリリュー島のような狭い島では、日本軍の小型戦車の方が機動力で上回るので使い勝手が良かったそうです。

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 対するこちらは米軍の水陸両用戦車(7人乗り)ですが、日本の戦車と比べるととても大きかったです。

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島内には、米軍に撃墜されたであろうと思われるゼロ戦もありました。

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 数々の戦跡を巡った後、最後に当時の日本軍守備隊長であった中川州男大佐の慰霊碑と、ペリリュー島で亡くなった日本兵の方々のために建てられたペリリュー神社を訪れました。
 このペリリュー神社の境内には・・・


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 大戦当時の米軍太平洋艦隊司令長官であったニミッツの碑文があり、そこには英文でこのように書かれていました。
「TOURISTS FROM EVERY COUNTRY WHO VISIT THIS ISLAND SHOULD BE TOLD HOW COURAGEOUS AND PATRIOTIC WERE THE JAPANESE SOLDIERS WHO ALL DIED DEFENDING THIS ISLAND」(諸国から訪れる旅人達よ この島を守るために日本軍人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い そして玉砕したかを伝えられよ)

 ベルサイユ条約によってドイツ領から日本の委任統治領となったパラオに、日本はインフラ整備や農作物の植付け、教育制度の普及を行いました。そして第2次世界大戦当時、ペリリュー島には地元島民と日本軍の兵士が暮らしていました。
 1944年9月に米軍がペリリュー島に迫った際、日本兵と仲良くなっていた地元の島民達は、自分達も日本軍と一緒に米軍と戦いたいと申し出ましたが、島民の犠牲者を1人でも出してはならないという軍の判断により、島民は全員強制疎開させられました。
 やがてペリリュー島の戦いが終了して島民が島に戻った際、かつて仲が良かった日本兵の死体を見て島民たちは涙を流し、日本兵の遺体を埋葬したそうです。

 この事を紹介した動画をアップしておきますので、良かったらご覧ください。




 今回ペリリュー島の戦跡を巡って、改めて戦争の悲しさ、そして二度と戦争を起こしてはならないことを実感しました。また、ペリリュー島を守った日本軍兵士が地元島民を守るために取った行動が、今のパラオと日本との友好関係を築いているのだと実感しました。

 ペリリュー島ツアーを終えた後は、北波止場から再びボートに乗り、コロールへと戻りました。


つづく