転勤族じゃないが・・
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私の場合は色々訳ありの引っ越しが多いですねぇ
勿論記憶に無いが「3つの時」って言われるから、満2才だろうか・・父が夫を亡くした伯母さんの手伝いにと、知床斜里への引っ越しが最初
その後は「着の身着のまま」・・引っ越し荷物もない引っ越しが何度かあるが・・
5年生の1月に仙台だから自宅が火事になってのは、前年の11~12月頃かなぁ
とりあえずは別棟に住む伯母さんの家だったと思うが、ちょっと離れた(斜里も街中に近かった)父の伯父さんの家に居候
寒さしのぎににゃんこちゃんを抱いて寝ていたような・・
年明け1月に仙台に引っ越しもしばらくは、父の実家に居候
3~4ヵ月だったのだろうか・・その頃伯母さんは、草餅を背負って行商に歩いていたから、春休みなど毎日もち草摘みに近所のお姉さんたちと、名取川の土手まで・・
帰りはお腹が空いてヘトヘト・・やっと歩いて帰ったことも、一度や二度じゃない
そして出来た「草餅」など食べさせては貰えなかった
そこから隣部落(今じゃ町内って言うが)の農家の納屋を借りて引っ越し
勿論ガスもなければ水道もない(あの頃は薪でご飯を炊いていたはず)
畳は敷かれていたが10畳位の押入れも何もないところだったが、家財道具も殆どなしだったから(お風呂は貰い風呂)
そこで中学卒業までの約4年間を過ごしたが、数年前に中学時代の恩師を訪ねたら家庭訪問の時の話をしてくれたが、母が草餅を作って待っていてくれたと・・
何もない・・母にしたら最高の「もてなし」だったのか・・
その時から恩師との絆が結ばれ、現在に至っているのか・・いつも何かと気の掛け心配してくれる
その後中学を卒業してからと思うが、学校に近い県道沿いの貸家に引っ越しも、10畳位の部屋と4畳半位の部屋・・台所とお風呂が付いていて、元の我が家があったところの土地を買って農協からお金を借りて、小さいながらもマイホームは昭和40年代に入ってからで、私は20歳を過ぎていて3歳違いの妹は20歳でそこから嫁いだはず・・
そのご結婚して夫亡き後家を増築も、昭和53年6月12日だったよね
あの宮城県沖地震で両親が建てた家は、通し柱が折れ倒れないものはなかった
翌13日にその前に住んでいた近くの貸家が空いていたことを知っていたから、朝一に行ってその日のうちに引っ越し
あの時は震災での援助など何もなかった・・かろうじて住宅金融公庫の、金利が僅か安かったかと・・
9月に上棟式・・夫のいない我が家は、息子が(2年生)屋根の上から餅まきしたっけ・・
53年暮れギリギリに新築の我が家に引っ越し、父も母もここから黄泉の国へ・・
地震の前は何とか仕事していた父が、ショックで以前からの鬱病がぶり返し二度と仕事をすることはなかった
その後には私の肩に家族の生活費と、建て替えた家のローンが重くのしかかり、定年退職まで払い続けた(残りは多くもない退職金で支払った)
また息子と娘も結婚して家を出て、私と当時飼っていた柴犬との生活が5年近く続いた
そして2004年に恩師が持っていた土地を譲り受け、11月だったかなぁ「地鎮祭」で2005年2月25日に現在の家に引っ越し
居候を含めて10回くらい引っ越ししているかも・・
私が細腕で建てた家はあの震災で、床下浸水・大規模半壊で取り壊し・・
次の引っ越しはあの世かなぁ・・老人施設ってこともあるのか
ランキングが低迷しています・・よろしくお願い致します~!
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