あれから4年・・
毎年歳を重ねるように・・これからも、3月11日と言う日がやって来るんですね
4年前のあの日はベガルタのホーム開幕戦を、明日に控えた前日・・7日のホーム開幕戦では、全員で黙祷を捧げました。
yahooのニュースではまだ仮設住宅などで暮らす人が、23万人ともありましたが夫の実家・・義弟夫婦も仮設住宅で今も暮らしている
我が家は幸いなことに私が一人暮らしをしていた元の我が家は、床下浸水・大規模半壊で翌年取り壊しになってしまったが、築6年が過ぎたばかりの自宅には大きな被害がなかった
勿論電気はつかない(4晩)・・食料品は買えない、ガソリンも買えないと言う不自由な日々を強いられたが(水道は大丈夫だった)
しかしながらオール電化でガスもストーブもない我が家は、全く暖房も取れないしあの日は食べるものがなかった
そんな訳で表面的には以前と変わらない日々ではある
夫の実家の集落(町内)は壊滅状態で、震災後遠くから見ると1軒だけ家の形が見えたが、近くに行ったら東側から津波を受けて・・かろうじて西側の一部が残っているだけだった
夫の実家は土台も一部しかなく、玄関のタイルで「ここだった・・」って分かる感じ
もう・・あそこは「危険区域」で家など建てられず、手前に土盛りされています
私が夫の実家辺りに初めて行ったのは、3月30日で・・28日に高校時代の友達が訪れて、元の我が家を貸して欲しいと言われた(3月30日に写した実家のあった方向)
温水器が倒れて壁は半分抜け、お風呂のタイルはかなり崩れ、住める状態じゃなかったから中を見て貰って断り、その日から友達が住む家さがし・・息子さんを亡くしたが早めに遺体が見つかった(その頃はやっとガソリンが買えた)。
しかしながらお母さんは未だに見つかっていなくって、約3週間近く遺体安置所回りをしたり・・のちに「みなし仮説住宅」になったアパートに、我が家にあったものを運んだりの日々を過ごした。
その友達はビニールハウスの中で、市場に出す野菜を束ねたりしていて、京都に就職が決まった息子さんは2日前に自宅に戻って、二度と帰らぬ人に・・
車椅子で一緒にいたお母さんは、今もまだ見つかっていない。
彼もあの津波の渦に流されたが、腰に一本の紐があり流されて来た流木に結わえて、閖上港まで流され20時間後に助らえたと・・
回りに浮かぶ人も多いし瓦礫も凄かったから、いくら手を振ってもヘリコプターからなかなか見つけられなかったらしい
今朝は雪が降った後があったがあの日も寒く、雪が降ったから水から出ていた頭は、ガチガチに凍っていて水の中の方が暖かかったと聞いた
ヘリコプターで酒田の日本海病院に搬送され、低体温症と凍傷で足が痛くてと私を訪ねた28日は、仙台に帰った翌日だった。
あの浸水区域には一般の人は入れなかったが、彼と一緒だったから30日に夫の実家近くまで行けたのだった。
私は一人で丁度一年がかり・・元の我が家の中を空っぽに片付けたが、その作業は半端じゃなかった
いつでも生活できる状態で必要最低限のものしか、今の家に持って来てなかったから・・
前年8月18日に亡くなった義母の、月命日には毎月墓参に通っているが、墓石は倒れたままであの日から何も変っちゃいない
昨秋は古希祝の同級会をやったが、把握しているだけで3人が犠牲になった 。
私はあの宮城県沖地震でも家を失ったから二度目ですが、宮城県沖地震の時は勿論何の支援もなかったし、もう・・忘れられているのかも知れない
4年前の震災では私の細腕て建てた家、壊したくはなかった
表面は何も変わってないような日々ながら、私の毎日も実際は大きく様替わりしたが、すべてを失った方々からしたら・・
4年間・・書ききれない沢山のことがありました
今日も「暴風警報」のメールが入ったが、東六郷小学校の前の慰霊碑と閖上の日和山まで行って来たいと思う。
犠牲になられた多くの方々に黙とうをささげ、今もなお不自由な生活を強いられている皆さんに、心からお見舞いを申し上げたい
私の命ある限り忘れられない「3.11」・・今はブログも書きたくない。
ランキングが低迷しています・・よろしくお願い致します~!
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