宮城県沖地震から34年
忘れもしない昭和53年6月12日、宮城県沖地震発生の日で時間は17時過ぎで、電線は大揺れだったのが最初に目に付き、会社から帰宅して当時乗っていたバイクをまだ止めてなかったが、バイクはそのまま横倒し・・
私が見ている前で玄関の引き戸は、スローモーションのように一枚ずつ倒れて割れた
多分その間私は立ち尽くしていたのだろう
地震が収まって「大丈夫・・?」と家の中に声を掛けたら、まだ小学校低学年だった息子と娘は、泣きながら飛び出してきた
家の中のもので倒れなかったものは、殆ど無く(冷蔵庫は横幅があったから扉が開いて、みんな飛び出した)勿論足の踏み場もなく、二階建ての家の通し柱がポッキリ折れていた
あの地震では犠牲者は今回の大震災と比べると、勿論問題外だけれど家屋の全半壊は7500戸に及んだが、今回の大震災のように避難所もなければ何も無かった
その夜は家族5人でお隣に泊めてもらったが、寝られるはずなどなかった
翌朝たまたま空き家になっていた場所を知っていて、朝一に大家さんに行って借りてその日のうちに引越し・・
夫を早く亡くした私の細腕で建て替えた家は、退職するまでローンを払い続けたが今回の大震災では、「大規模半壊」でやむなく4月に解体を終えたばかり
今回の大震災では色々な支援があったが、宮城県沖地震では「1円」たりとも支援などなかった
まさか短い人生の中で二度も家を震災で、失うとは思いもしなかった
それでも退職後息子夫婦と同居するべく、別の場所に土地を求めて引越しをしていたから、今回の震災で住む家はあり・・私は恵まれていたが、何ともやりきれない
宮城県沖地震のショックでそれまで働いていた父は、廃人同様の「鬱病」をわずらい一生を終えた
少ない私の収入で一家5人が、10数年食いつなぎ・・父が亡くなり、子供たちが独立したのを見届け母が逝って29日が13回忌になる
その間言葉では言い尽くせないほど色々なことがあったが、すべて済んでしまったこと・・笑顔と明るさしかとりえのない私は、いつも同じ顔で過ごして来たと思うが・・・
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