自己紹介
プロフィールなど載せた方がいいのではとのことで、載せてみます!
コンサートなどで載せて頂いている経歴は下記になります。
竹井 良 [Piano/作曲] Ryo Takei
13歳よりピアノを始めホテルなどで社会人経験後、24歳からモデルとして活動し、
エルメスやアルマーニなどの来日コレクション、ガリアーノなどパリ・コレクションに出演。
傍らポップスのバンドや舞台音楽の作曲などを続け、
30歳を機にクラシックを本格的に始める。2010年2月に初のソロ・コンサートを開催。
目指している事
ピアノはあくまでも自分の唯一の表現の手段(これしかできない)なので、コンサート的には総合的な(ストーリー性や、様々なジャンルの方との共演など)事を目指し、自作もピアノ曲だけにとどまらず、様々な編成の曲を作って行きたいです。大げさですが、総合芸術を作りたいです。
もちろん、最低限の技術があってこそなので、ピアノは真剣にやっていきたいです。
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音楽に至る生い立ちを説明しますと・・・(以下、自分の記憶の整理でもありただの羅列かつ長いので、お時間のある方は見て下さいね・・・)
幼少期:
親曰く、ピアニカなどうるさく鳴らしていたらしいが、全く記憶なし。それよりもセイント星矢のゴールドクロスにはまっていた事しか思い出せない。。。
我が家の親はジュリー?や長渕が好きだった感じで、クラシックやジャズなどとは無縁の家庭でした。今でもなんで自分がこういう世界に興味を持ったのか、不思議です。
小学校:
吹奏楽部が結成され入りたかったが、違う事をしていた為入れず。そうしたら瞬く間にそれが全国一位になって、やっぱり自分も頑張りたかったと、ものすごく後悔。今でも後悔してます・・・唯一した楽器が、生徒全員でやる合奏でアコーディオンをやった事でしょうか・・・三ヶ月くらい?(笑
当時の音楽の先生に、歌のテストで才能あるよと誉められ、自信満々になっていたが、後になってオンチと判明。なので歌は人前では歌いません(笑
六年生の時の先生が、とても面白い方で、全くクラシックには興味はなかったのですが、面白く説明して下さったので、ちょっとテープでも買ってもらって聞こうかなとという気にさせてくれました。(ウィリアム・テル序曲だったかと。当時はまだカセットが主流だったのです・・・うわぁ時代を感じる・・・)
その方は、海外に留学していて群馬に戻ってきた時、故郷の山を見たときに泣いたと言っていて、そういうものなのかと、ちょっと郷愁・感傷という気持ちが分かり始めました。
諏訪先生ありがとう!
ただ、この時はクラシックを買っても、ちゃんと聴くなどできず聞き流すだけでしたが。
中学校:
この時の先生もこれまた、素晴らしい人で、この人のおかげで今の自分があるのです。
音楽してなくても、音楽の授業が始まる前にふざけてピアノ触ったりしますよね。
それで、楽譜はなんとなく読めたので、合唱の伴奏(ビートルズだったかな。)を弾いてみたら、たまたま上手く弾けて、それを先生が聞いていて、習ってないのだったらちょっと習ってみればと言われたのがきっかけでした。(剣道部にいましたが、既に幽霊部員だった・・・)
松井先生ありがとう!
それで、近所のヤマハで軽い気持ちで習ってみたのでした。当時は、みんなスポーツ系に打ち込んでいたので、恥ずかしい気持ちもありましたし、レッスンも全く楽しくなかったです!ハノンなどは仕方ないにしても(いや、当時はなぜこんなのするのかと意味不明でした。)曲も楽しくないし(ブルグミュラーとチェルニー?)今ではブルグミュラーは楽しかったなぁとは思います。練習は全くしていかず、いつも先生はしかめっ面でした。怖かった・・・
んで、一年足らずで辞めたのですが、学校でたまに簡単な伴奏はしていたので、合唱祭で伴奏をする事になっちゃいました。男で珍しかったのでしょうか、推薦されたのです。上手い人はたくさんいたので、なんであなたが?という感じもあり、それもプレッシャーでした。
大地讃頌とモルダウだったかな。当時は難しかったです・・・なんとか弾けるようにはなったのですが、
肝心の本番で、指揮よりも早く弾いてしまい(モルダウで最後、一回止まってその後、盛り上がる部分があるのです。)ショックを受けてかなり落ち込みました。人生で最初の挫折でしたでしょうか・・・
それで、しばらくピアノから遠ざかっていました。
この頃聞いていたクラシックはあまり覚えていない・・・どちらかと言うとポップスやロックでした。
ただ、世界の国歌全集になぜかはまった記憶が(笑
後は、プログレッシブとか聴いていましたよ。ドリームシアターとか(マイナー・・・?)
高校時代
が、結局高校の時も伴奏もしていたので合唱団もやってました・・・(歌はオンチだったのに笑)
後は、高校時代はバンドとかしたりしますね。それで、自分も誘われたりして、少しロックをやってました。
伴奏もあったので、またピアノの先生についたのですが、普通にやっていたら子供からやっている人には敵わないからと、いきなりシューマンやらなんやらを渡されて、当時の自分には全く弾けず・・・すっかり嫌いになりました。
それで、先生がちょっとレッスン室を抜けた間に適当に弾くのが楽しくて、遊んでいたら、そこの学校の院長が聞いていて、作曲を習わないかと言われ、急遽作曲を学びますが、和声など意味が分からず、作曲の先生とは意味が分からないと、数回で決裂(笑
音大もいいな、と思っていましたが、先輩がピアノが上手すぎて(既にベートーヴェンのソナタを全部仕上げ、平均律をし、芸大の作曲学部に行きました。)上には上がいる事を思い知り、すぐ挫折しました。ただ高校の時の先生(国語でしたが)が、自分の合唱用に編曲したムーンリバーを大変誉めて下さり、厳しいけど、その道が向いていると言ってくれました。その言葉も今では励みです。
尾藤先生ありがとう。
この時、図書館などでCDを借りてたりしましたが、ラフマニノフのコンチェルトには衝撃を受けました。当時名前さえも知らなかったし・・・そして、ブラームス、ピアノコンチェルトの一番や交響曲第四番など聴いてみましたが、良く分からず速攻寝てました。が、しかししかしなぜか何回も聴かずにはいられなかったのです。全く理解できなかったのに。今では大好きですが、これも不思議です。
その後
しかしながら、結局は違う道を目指し、留学したらストレスで大学が始まる前に帰国(群馬からいきなりアメリカに行ったせいか、カルチャーショックが大きすぎた?弱すぎ・・・)戻って東京の予備校行っても行かずにバイトしてました。(当時、演劇の劇場でバイトしていたので、お陰で劇というものの素晴らしさが分かりましたが・・・)
結局、群馬に戻りホテルで働き始め数年、ピアノはごく趣味でした。(一回だけポップスのライブで弾いたくらい)
そして、また東京に戻りホテルで働いていた時に、モデルの事務所を紹介され、モデルをする事になりました。(以前に登録でバイト程度ではしていましたが。)
そうしたら、モデルならばパリやミラノに挑戦したくなり、数年はそのために稼いだり、その事に労力を費やしました。
そして、念願かなって様々なショーや仕事に出させて頂きましたが、それを共に、一生涯をかけて本当に自分がやりたいのは、何なのか?と考える様になり、振り返るとその時々は一瞬だったとしても、唯一真剣に取り組んだっもの、ピアノを真剣にやらなければ後悔すると思ったのです。
プロを目指すとかではなく、あくまでも自分の人生として。
それで、またピアノに取り組む事になりました。
思い起こせば、社会人になってからもたまにピアノを弾く機会があり、聴いてくれた専門の方から、教えてあげると言ってくれた方もたくさんいました。でも、その度にすぐ飽きたり、卑屈になって辞めてしまったり。弾けないと言うコンプレックスに埋もれてしまって逃げていたんですね・・・後は怠惰でしょうか。その時にせっかく後押ししてくれていた方々には本当に申し訳ないです。
今でもコンサートなどするには本来おこがましいし、怠けてしまう時もあるし、全く変わってない自分に嫌気が差すときもあります。
でも、今は協力してくれるたくさんのプロの方たちがいます。その人達と一緒に何かを作り上げられるという事が本当に素晴らしい事だと、去年から始めたコンサートで実感しました。
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物事には遅いという事はないと思います。ただ、それに気付けるかどうかはタイミングもあるかもしれません。
今になって思うのは、回り道をしてしまいましたが、働いていた事も無駄ではなかったと思っています。
劇場での仕事は総合的な物をやりたいと言う気持ちのきっかけになったし、ホテルでは、最高のホスピタリティとはという精神を学ばせて頂きました。コンサートでも、ただの自己満足ではいけませんから・・・
今、自分の頑張るべき時はまだ始まったばかりと思っています。
これからが苦労の時ですね。今まで自分から逃げていましたから。
死ぬ前に、なんとか自信の持てる曲を作れたら、そんな気持ちで頑張っていきます!