原田城主と中川清秀公 | 中川清秀公・本陣

中川清秀公・本陣

 郷土豊中の歴史を調べていくうちに出会った戦国武将・中川清秀。知名度は低いけど、実は男気あふれる魅力的な人物。此度タイトルを「中川清秀公・本陣」と改め、清秀公の魅力について皆様と語り合いたいと思います。ご意見、ご感想、情報など宜しくお願いします。

 皆さんおひさしぶりです!今回は私が清秀公を知るきっかけとなった原田城と原田氏、また原田氏と清秀公との関わりについて書いてみたいと思います。


原田城は大阪府豊中市に現存する市内唯一の城館跡です。国人領主であった原田氏の居館跡として知られております。

近くには私の母校原田小学校があり、校歌にも「・・昔ゆかしい城跡の・・」と謳われています。




原田小学校校庭より見た原田城跡(中央の木が生い茂った所)


築城の年代は不明ですが、発掘調査によると十三世紀まで遡ることができるそうです。「足利季世記」や「細川両家記」といった軍記や古文書などに登場し、北摂をめぐる戦乱の攻防の舞台としてしばしば歴史に登場しました。


大河ドラマに登場する荒木村重の関係で言いますと、荒木村重に追われた池田(大阪府池田市)の城主、池田勝正が逃れてきたりしています。これは原田氏と池田氏が関係があったからだと言われています。


また有名な「信長公記」によると荒木村重を攻める拠点として原田城には古田佐助(織部)←漫画「へうげもの」で最近有名人!?後の武家茶道開祖。と中川瀬兵衛(清秀公!)が在番したとされています。


と、ここまでは皆さんもご存知の話かもしれません。


そこで原田氏の変遷についてこれからお話しさせていただきますと、出自は不明(源氏とか平氏とかいうやつ)ながら「多田神社文書」(兵庫県川西市にある清和源氏ゆかりの神社)によると十三世紀頃、原田左衛門尉なる人物が登場し、これが原田氏の所見であると言われています。


その後、北摂をめぐる戦国動乱を生き抜き、荒木村重に属します。天正六年「荒木村重謀反」の時、原田氏は村重に味方し有岡城に籠って戦い抜きます。

村重の有岡城脱出後も「一度荒木に味方すると決めたからには最期まで!」と奮闘。しかし遂に説得に応じ、以前より親交のあった清秀公に身柄を預けられます。


そうなんです!実は以前から清秀公と親交があったのです。天正十三(1585)年、中川公が播州・三木、次いで文禄二年、豊後国・岡に転封されるのに従って多くの北摂の武士が中川公に随ってついてゆくのですが、原田氏も中川公に随ってついてゆきました。

 「中川史料・諸士系譜」にみえる原田氏の記録を見てみますと、


永禄、元亀の頃、清秀様新庄(大阪府西淀川区下新庄)御在城の時、池田・伊丹御参向の節者度々原田の館に御中宿被成、甚御懇志有


とあります。今茨木市にある新庄町の名は、清秀公が茨木城に御移りの時、公の徳を慕って領民が住み着いたためであると言われています。

また「原田の館」が何を意味するのかは解りませんが、大阪府史跡名勝天然記念物という本には原田南城西方に「瀬兵衛屋敷」と呼ばれるところがかつて原田にあったようです。現在の場所を特定することはできませんが発掘の地図などから、かつて庄屋さんをやっておられた方のお宅の辺りではないかと推測しております。

※原田城は現在の城跡である北城と今は現存しない南城とがあった。


話を戻しますと、原田氏は村重に味方したため領地を召しあげられてしまいました。たちまち生活に窮した(勝手迷惑仕る)原田氏に対して清秀公は「御手作りの田畑」をお与えになっておられます。


※ここで言う「勝手」とは暮らし向きの事。「迷惑」は困窮するとの意味。

※岡山藩の史料「吉備温故秘録干城」より。原田氏の一族は荒木村重の後伊丹城を預かった池田信輝(勝入斎)との関係で岡山藩池田家に仕えた者もいた。ちなみに信輝の子・輝政(今の姫路城を築いた)の妻は清秀公長女・絲姫。つまり中川家と池田家は親類筋。


 また花隈城落城の砌、信長は城主の妻子を磔にかける様命じます。この事を聞かれた清秀公は、城主大河原氏の妻子を匿われ、信長に直談判をして命を救っておられます。大河ドラマで描かれたような自分の保身のみに生きるような人物なら決してこのようなことはなされないでしょう。


花隈落城の注進、信長公達御聴、(大河原)石見守、(荒木)志摩守が妻子は七本松にて磔に掛候様仰出さる

清秀様、(池田)信輝様より日乗上人を以深御詫被 仰上、依之格別ニ助命被仰出、志摩守妻子は信輝様江、石見守妻子は清秀様江御預被仰出


※荒木村重資料・伊丹資料叢書四集録「豊後岡藩中川氏諸士系譜」より

※荒木志摩守元清 荒木村重の従弟。荒木流馬術の祖。


 結果として清秀公は妹婿・古田左介の説得で信長に味方しますが、高山右近同様、清秀公にも葛藤があったはずです。説得中も荒木のもとを訪れ、変わらぬ友情を誓ったと言われます。これに対して村重は清秀公の手を取って、涙を流し、これまでの礼を述べたうえで、これよりは織田につき家名を全うするように言います。

「中川史料集」より

これからは私の私見ですが、村重は清秀公に摂津衆の後を託したのではないかと思います。村重を尼崎城に説得に行き、そのまま逃亡したとされる荒木久左衛門もひょっとすると村重と示し合わせての事ではないかという方もおられます。(後の為に軍勢をわざと逃がした)

 のちの信長は荒木の残党の引き渡しを拒否したとして「高野聖千人切り」をしたと言われますが、「村重謀反」の余波はのちのちまで尾を引いていたのでした。


話が途中でそれてしまったような感じがしますが、今回はこの辺りで・・・