甲子園を見ていて思うのは、「ひたむきさ」と「純粋さ」だ。送りバントをしてアウトになると分かっているのに1塁への全力ダッシュ、3アウト取った後のベンチへのダッシュ、試合に出られない選手のスタンドでの応援…
清々しいなと思う。
一方その清々しさとはやや趣を異にするプレーもある。
久しぶりに訪れた友人のBlogに松井選手の星稜高校の5打席連続敬遠の件をきっかけに色々と話が展開し盛り上がっていた。この盛り上がりのきっかけになった通り、「敬遠」もそのプレーの一つかもしれない。
また、この甲子園であるチームが見せた1塁ランナーがリードの際「転ぶふり」をして相手投手が刺しにいった隙に3塁ランナーがホームするというトリックプレーもあった。
こういうプレーも含めて人が甲子園を見て感動するわけだがその理由は様々だと思う。しかし敢えて何故感動するのか?そしてその感動を呼び起こす甲子園のあり方について整理して考えてみたい。
まずは、甲子園という大会のやり方を考えてみる。甲子園は予選も含めて負けたら終わりというノックダウン方式を採用した全国大会だ。
視聴者・観戦者・OB…と立場は様々だが、我々日本人は47都道府県いずれかの出身なので結局は何らかの形で当事者となっている。その当事者がうだるような暑さの中で一生懸命戦う後輩達の姿から母校愛・郷土愛という情緒的なものを生み出す。
「負けたら終わりだ」という状況=大会運営の仕組の中で、自分がかつて生まれ育った郷土を代表して闘う選手達、そしてフィールドに立てなくてもアルプス席で声を限りに応戦する後輩達のその姿が「感動」の正体の一部だと思う。
甲子園の大会は日本の高校野球の長年に渡る伝統であり、季節の風物詩として最高のコンテンツという面では何ら否定する必要は無い。
スポーツを通して人間育成を!という側面からみても、試合中あらゆる局面での全力プレー、試合に出られない選手の応援の姿勢から見て取れるようにこれもまた「一生懸命」・「和」の精神を学ぶには最高の教材だと思う。
例えば極端な話、例え塁上が埋まっていても松井と勝負して大量失点するよりも1失点与えるのみでリスクを最小化するという局面のゲーム戦術も一つの判断だ。腹痛のフリをして気を引いているうちに他の選手が塁を進めるというのもありかもしれない。
良い悪いは別にしてこういったプレーは間違いなく翌日の紙面を賑わすだろう。
盛り上がるコンテンツは常に清々しい内容とは限らない。むしろそれがネガティブな事であっても話題性の方がより盛り上がる場合がある事は誰もが分かっている。
人の成長の為の教材は必ずしも「こうあるべきだ」という教えだけでは不十分だ。「こうすべきでない」という反面教師的な教えも時に非常に重要だ。
以上の理由から最高のコンテンツ・最高の教材という面で見れば、議論はあるものの敬遠もトリックプレーも説明がつく。

ただスポーツの現場に携わっている人間として甲子園を見ると少し異なった風景が見えてくる。
一つの例としてサッカーの世界の流れ、考え方を見てみる。
日本サッカー協会ではサッカーの発展のために「代表チームの強化」・「選手の育成」・「サッカーの普及」を三位一体で考えている。先のワールドカップで見たとおり世界で戦える強い代表チーム作りは我々国民に夢と勇気を与えてくれる。そういう意味でワールドカップで活躍する日本代表チームの活躍は非常に価値あるコンテンツだ。その価値あるコンテンツ作りの為には、チーム強化とそこで戦う選手を育成しなければならない。
少しでも才能のある子供たちにサッカーをやってもらうためには競技の普及は絶対に重要だ。
普及という活動から底辺を広くし、育成という長期のプロセスを経て選ばれた選手を強化する。
そう考えると協会の実践している三位一体の考え方は大事なことだ分かる。
サッカーでも甲子園に相当する大会がある。正月の風物詩高校サッカー選手権である。また野球同様に県を代表して闘う国体もあった。しかし高校野球と異なるのは、高校サッカー選手権をその年代の最高の大会として位置付けていない点だ。それは注目度は高いもののノックダウン方式が選手の育成という面では必ずしも良い点ばかりではないと思っているからだ。一発勝負のトーナメントの良い点が勝つための本気度の醸成だとするとネガティブな点は、勝ち続けない限り本気で戦う試合数が確保されない事、そして「勝つための戦術・戦略」と「若年層の育成のための方針」がイコールではない事だ。
それのため協会は、分かりやすく言うと試合数の確保のために夏の国体を廃止しU18・U17…年代ごとに細分化したリーグ戦を始めた。また若い年代の選手がプレーするチームの選択肢が広がっているため高校に所属しているチームとJリーグをはじめとするクラブに所属しているチームが一緒になって年間戦えるリーグを創設した。このような環境が出来あがってきたために多くの選手を抱えるチームはリーグ戦ごとに別のチームを送る事も可能になった。
こうして一発勝負の大会からより多くの本気勝負の試合機会を増やしている。
このあたりの考え方が、甲子園を高校野球の最高のステージとして用意している高校野球界と高校生年代を世界で戦える選手育成の場として捉えているサッカー界との違いかもしれない。
こうした違いがあるから、当然そこで指導する指導者の考え方も異なっていると思う。
サッカー界では試合環境の整備に加え、そこでプレーする選手の育成に直接かかわる指導者自身の育成に力を入れている。サッカーの指導者はS,A,B,C,D級とライセンス制度を取っている。各クラスごとにしっかりとした指導方針があるがその内容をここで簡単に語るのは大変なのでサッカーの指導実践の初日の出来事を一つの例として話す事によって求められる指導者像を何となしに理解してもらえたらと思う。
指導実践初日強い日差しの中、実践トレーニング開始30分前から指導インストラクターがカラーコーンやディスクをおいて練習環境を作っている。選手(受講者)がインストラクターの練習内容の説明や練習後のフィードバックを集中して聞いている。
何でも無い指導実践の風景に見えるかもしれないがこの中に二つの大事なコンテクストが含まれている。一つはインストラクターが自ら練習内容を考えて選手のレベルに合わせた練習のオーガナイズ(環境作り)をしている事でこの風景はサッカーの世界ではトップクラブにおいても大差ない。
もう一つは暑い日差しの中選手が指導者の話を“集中”して聞いた事だ。
それは指導者の「集中せよ!」
という言葉だけの話ではない。インストラクターから選手に集合させる際、指導者が日に当たる位置に立つ事を教えられる。
指導者がこの位置に立つと選手は日を背中に受ける事になる。つまりまぶしくないポジションで指導者の顔が見ながら話に集中できるようにという配慮だ。少しでも良い環境を選手に与えてあげるわけだ。あらゆる局面でPlayer’s firstの考え方を教えられる。
サッカーと比較してみると、高校野球はコンテンツ・教材としての価値と別にPlayer’s firstという考え方において甲子園は決して世界的な選手を育成する場でも強化する場でもないという事が分かる。
結果的に多くの素晴らしいプロ選手を輩出しているが、そういう一部の選手を除けばむしろ甲子園を最終到着地点とした大会と割り切って考える方が良いのかもしれない。
そう考えれば、その最終地点で結果を出すために敬遠・トリックプレー・送りバント…をその時点で最善のプレーとしているのだからそれなりに説明がつく。
今回はここまでにして、野球という競技性を考えた時にそういったプレーが本当に勝つために最善方法なのか?あるいは無駄な1塁へのダッシュや3アウト後のベンチのダッシュが単に高校生らしいプレーなのか?そういったサインを出す指導者とは?等々次回は違った視点で話を進めてみたい。