我々はここで、磐石(岩)一度だけ打たなければならなかった理由と、また、二度打ったのがなぜ罪となったのであるか、ということについて調べてみることにしよう。
 黙示録二章17節では、イエスを白い石で象徴しており、また、コリントⅠ一〇章4節を見れば、岩(磐石)はすなわちキリストであると記してあるのを発見できる。
 ところで、堕落論で明らかにしたように、キリストは生命の木として来られた方であるから(黙二二・14)、磐石は、すなわち生命の木ともなるのである。
 また、創世記二章9節の生命の木は、エデンの園において、将来、完成するはずのアダムを象徴したのであって、この生命の木もまた、磐石を意味するものでなければならないから、磐石は完成したアダムを象徴することにもなるのである。
 ところで、サタンはエデンの園で、将来磐石となるはずであったアダムを打って堕落させた。
 そこでアダムは、生命の木となることができなかったので(創三・24)、彼はまた、神から流れている命の水を永遠にその子孫たちに飲ませ得る磐石(岩)ともなれなかったのである。
 それゆえに、モーセが杖をもって打つ以前の、水を出し得なかった磐石は、堕落したアダムを象徴するものであった。
 サタンは、将来、命の水を出し得る磐石となるべく成長してきたアダムを、一度打って堕落させることにより、彼を「水を出せない磐石」としてのアダムに変えてしまったので、はこの水を出せないアダムの表示体である磐石を一度打って水を出すようにし、それによって、「水を出し得る磐石」として、このアダムを蕩減復帰することができる条件を立てようとされたのである。
 ゆえに、モーセが一度打って命の水を出すようになった磐石は、とりもなおさず生命の木として来られて、堕落した人間に命の水を下さるはずのイエスを象徴したのであった。
 
     (原理講論 モーセとイエスを中心とする復帰摂理 P386~387より)


【千流的まとめ】
 磐石はアダムを象徴生命の木



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