説教には、何が必要なのでしょうか。
霊的指導者には体恤的な信仰なしにはなれません。本を見て説教の準備をし、本を見て説教しても、その本の中に神様がいますか。いません。神様は霊的な中におられるので、神霊を通さなければならないということを皆さんは知らなければなりません。
聖日ごとに「聖書はどこを読もうか、賛美歌、出てこい、聖歌、出てこい」と言うのではありません。それではいけないのです。人にとっての生きた材料を中心として、聖書からそのような歴史を取り上げて、その人のことと聖書の内容を対照しながら興味深く説教するのです。
そうすると聞く人は、自分の話なのですっかり引き込まれるのです。喜ぶのです。本を見てしようとしてはいけません。本も人から出てくるのです。人自体が本の原本だということを知るべきです。
牧会者は苦労をたくさんしなければなりません。人生の修練をたくさんしなければなりません。かわいそうな労働者から乞食、あるいは高級官吏、あるいは権勢圏にある立場まで一度は経験することも必要です。そしてそのような状況を中心として、その時に公的立場で経験した事実などを取り入れた体験談には実感がわくのです。
皆さんが説教する時、昔その題目で説教したことがあるということを食口が知れば、気を悪くします。それは、人が春夏秋冬の四季によって変化を感じるのと同じだからです。朝だからといって、いつも気分がいいとは限りません。何も心配なことはないのに、とりわけ憂鬱な日もあります。
朝の日差しも明るく、そうかいな天気でも自分では憂鬱な日があるのです。そのような時、どうすれば解決できるでしょうか。これを急に変動させる刺激的なものがなければ、もっと憂うつなところを求めて入りなさいというのです。このように正反対の新たな刺激を与えるなり、それを克服し得る新たな刺激を起こして補充していかなければなりません。
皆さんが解決法案を立てて一日一日の生活を調節していくことができなければ、今後多くの人の心霊を指導することはできないのです。
(天聖経 P1118~1119より)
人生の教訓を語るような場があるとすれば、本で読んだことではなく、実際に自分が体験したことが最も実感的に伝わるのではないでしょうか。自分の体験を原理的、聖書的に解釈して伝えられるようになったら素晴らしいことだと思います。
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