深沢七郎『楢山節考』読書会のもよう(2020 3 6) | 信州読書会

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2020.3.6に行った深沢七郎『楢山節考』読書会のもようです。

 

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私も書きました。

 

「本能と智慧」

 

『深い河』の大津が、行き倒れた仏さんをを背負って、ガンジス河の河岸で荼毘に付す。

でも、あれは赤の他人の仏さんだ。親を、生きたまま背負って楢山まいりに連れて行くのとわけが違う。

 

「持続可能な社会を実現するための取り組み」

 

こういう論文がたくさんある。この村では、間引きや、掟を破った一家の殲滅などが、持続可能な社会を実現するための取り組みなわけだ。そして、取り組みの最終手段は、自発的な「楢山まいり」である。これは家の存続の手段である。

 

マルクス主義からいえば、家庭が、労働力の再生産を担っている。再生された労働力は、搾取され、資本家階級は、常に政治権力を保持して、不労所得で太った猫のようにぬくぬく生活する一方、労働者は、再生産可能なギリギリの生活で、子供を育て、高齢の親を厄介者扱いする。

 

子供も高齢の親も、ともに仲睦まじく健康でというのは、ブルジョワ資本家階級の家庭の特権である。保守階級のエゴがまるだしになるところだ。一般庶民の家庭では、一生働き詰めで、余裕など対してないまま、前のめりで人生を終えていく。

 

最近は直葬というのが増えている。直葬とは、通夜や告別式などの儀式を一切行わず、自宅や病院から遺体を直接火葬場に運び、近親者と僧侶のみの立ち会いで弔う葬式のことだそうだ。遠戚に市役所から連絡が来て、お骨を取りに来てくれという要請され、断るとそのまま無縁仏なるケースも増えている。

 

社会秩序は、死と生の世界を含んで形成されている。今回再読して、自分たちの子供を守ろうとするけさ吉と松やんが世代交替をのぞんで、おりんを突き上げて、楢山まいりを強いている様子が、端々の描写から伝わってきて、心打たれた。

 

松やんの「つんぼゆすり」は、おりんを背板にのせて虐めるというジェスチュアで、明らかにおりんへのあてつけである。

でも、松やん自身もなんでこんなことを自分がしてしまうのかわからないのだと思う。「いじめ」の核心とは、やはり無意識の生存本能に根ざしているのではないかと思わざるを得ない。本能であれば、人間が人間であるかぎりなくならない。

 

本能に根ざした「いじめ」を、回避するには、智慧が必要だ。その智慧は、自分で考えつづけることでしか身につかない。

本能と智慧との葛藤に自分で筋道立てて、きれいな心がけで死んでいったおりんは、徹底的に自分の生と死を考えてきた人だ。著者は、釈迦の無常観とキリストの愛を念頭に置いて、おりんの性格を書いたそうだが、私は、おりんに哲学者の面影をみた。

 

  (おわり)

 

読書会の模様です。

 

 

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