スタンダール『パルムの僧院 下巻』読書会のもよう (2020.2.21) | 信州読書会

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2020.2.21に行ったスタンダール『パルムの僧院 下巻』読書会 のもようです。


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私も書きました。

 

 

「情熱のない時代」

 

(引用はじめ)

 

けれども情熱のない時代はなんらの真の価値を所有してはいない。すべてが代用品の取引になる。こうして、部分的には心理でもあるし道理にかなってもいるけれど、しかし魂は抜けてしまっている、ある種の言い回しや評言だけが、民間に流通することになる。

 

『現代の批判』キルケゴール 岩波文庫 P.37

 

(引用おわり)

 

ロマン主義文学の特徴は、情熱だ。ファブリスは、ワーテルローを目指し、僧籍にありながら、旅芸人を恋愛のもつれから殺し、獄中で監獄の司令官の娘と激しい恋に落ち、何度も毒殺されそうになりながらも脱獄する。すべては、情熱が動機である。

 

革命の時代は情熱の時代であり、現代は水平化の時代であると、キルケゴールは指摘した。『パルムの僧院』が発表された1839年の7年後1846年のことである。革命への情熱は、スポーツやネットフリックスのコンテンツやオンラインゲームという革命の代用品で情熱の成分を薄めて、発散させている。代用品で反省ばかりして情熱のない状態を、水平化という。

 

検察長官ラシやファビオ・コンチ将軍をはじめとする廷臣たちには魂はないが、ファブリスやクレリア、サンゼヴェリーナ公爵夫人には魂がある。

 

(引用はじめ)

 

マリエッタの恋の場合、魂は関係していると思ったことはなかったのに、公爵夫人には自分の魂が全部彼女のものだと思うことが、ときどきあったからである。(中略)ところがクレリア・コンチの崇高な面影は、彼の魂を占め、彼を怯気づかせるほどになっていた。(下巻P128)

 

(引用おわり)

 

真の価値が、魂に関係し、魂を占めるものだとしたら、現代の価値は、魂の抜けた、つまり、気の抜けたビールみたいなものだ。ナポレオンからファブリスが生まれ、ロシアではラスコーリニコフが生まれた。自分には魂に関係した恋などなかった。これからもないだろう。ナポレオンに憧れるようなファブリスの情熱は、青春時代には若干あったが、いまはもうない。文学的情熱がないから書こうとも思わない。せめて、自分はモスカ伯のように聡明で腹黒くありたい。

人間と人間の関係に真の力を与える魂の働きがなく、情熱を抱いた途端に、自らが怖れをなして情熱を手放し、世間は、情熱をいつのまには代用品にすり替え、のっぺりした日常に埋没させてしまう。

そんな時代に生きながら『パルムの僧院』を読むと、ファブリスの情熱のほとばしりに目眩がする。滑稽だが、彼の情熱を笑えない。情熱のない時代に生きるわれわれのほうが、笑えぬほどに滑稽だから。

 

  (おわり)

 

 

 

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