コラム 『ピカソの感情教育』 | 信州読書会

信州読書会

長野市で読書会を行っています



(『カサジェマスの死』 Death of Casagemas Date: 1901)


『ピカソの感情教育』


1901年のパリ、モンマルトルの粗末なアトリエ。20歳のピカソは、親友のカサジェマスとその恋人でモデルのジュルメーヌと三角関係になってしまう。当時ピカソはオデットという恋人がいたが、ジュルメーヌとベッドにいるところを彼女に見つかってしまった。その光景は「怒れるオデット」という素描として残されている。失恋したカサジェマスは、故郷バルセロナに戻るため、送別会を催し、宴もたけなわになったころ、彼はポケットから拳銃とりだし、一発をジュルメーヌに、もう一発を自らのこめかみに発砲して自殺してしまう。ジュルメーヌは、幸い擦り傷ですんだ。カサジェマスは、実は不能で悩んでいたという。愛息の死を知らされた彼の母もショックで死んだ。ジュルメーヌは、二人以外の何人もの男性と関係を持っていた浮気な女性だった。


ピカソには、女性との関係をすべて絵に記録するという習慣があった。そして、三角関係のもつれで親友が自殺した事件を境にして、ピカソの有名な『青の時代』がはじまった。


それから40年後の1940年代のある日、還暦を過ぎたピカソは、若い恋人フランソワーズ・ジローを伴って、青春時代を過ごしたモンマルトルのある粗末なアパルトマンを再訪した。彼は、ドアをノックして返事も聞かずに部屋に入っていく。



(引用はじめ)


部屋のベッドには小柄で歯もない老女が寝ていて、ピカソは彼女とニ、三言葉を交わすと、傍らの机の上にお金をおいて出てきたという。不思議に思って理由をたずねるとフランソワーズに彼は、彼女は若い時とてもきれいで私の友人をひどく悩ませた人だといい、なぜ私を彼女に会わせるのかと問いかける若いフランソワーズに、ピカソは、「私は君に人生について学ばせたいのだ」と答えたという。この女性はもちろんジュルメーヌである。ピカソは彼女が1948年に亡くなるまで援助を与えていた。


(『女たちが変えたピカソ』 木島俊介 中公文庫 P55)


(引用おわり)


ピカソのキュビスムは、こうした身も蓋もない『リアリズム』に裏打ちされていた。


(おわり)