●家族・世話になった人が証言する
フィンガー5《沖縄時代》の素顔!
コマルウ・・・・・!
おしめの話まであるの~!!
“音楽のキチガイ”といわれながらも、音楽家として東京での成功を夢み、指に血をにじませ努力した、あの沖縄時代のフィンガー5
勉強ギライなキミにも、きっと参考になるヨ。
家族・親戚の人の証言
具志堅チエ子さん(玉元兄弟の長姉)
音楽キチガイ
弟たちの思い出を一言で言うんですか?
それはもう“音楽キチガイ”ってこと以外にないですね。
小学生の頃からレッスンをやってましたから、あのころは映画なんかもまったく見たことないのじゃないかしら。
一度、那覇に訪ねていったとき、あんまり音楽ばっかりに夢中になっているので、
正男に「少しはふつうの子のように遊びなさい」って言ったら、逆に怒られちゃったくらいなんです。
その時、正男はまだ小学校2年生ですからね。
そんなことがあって少したったころだったかな。
琉球放送の『ワンダフルショー』にでて、『マイベビーバラバラ』って曲ですか、それを歌って優勝したのは。
“音楽キチガイ”が少しは認められたのだから、もちろんこれからも努力はしてほしいけど、同時に、学校の勉強の方も“キチガイ”になってやってもらわなければ・・・。
楚南きくさん(晃くんの育ての親)
お父さんに食べさせるんだ
まあ、やんちゃ坊主で、にぎやかな子だった。
蛇皮線に合わせて踊ったり、食事のときにお箸で食器をたたいては歌ったりで、元気のある子だったんですよ。
家の前に畑があったんですけど、そこににがうりがなってたんですね、晃がそれを盗もうとしたんで、しかったら「これをお父ちゃんに食べさせるんだい」って言うんですよ。
いたずらもするけど、することがかわいくて憎めないんですよ。
そんなこんなで、3歳までずっと一緒に住んでいただけに、晃が親元に帰って行った時は、宝物でも奪われたようで、1週間くらい寝れなかったほどでした。
末吉美代子さん(いとこ)
物干しから落ちた一夫くん
上の3人のおしめの取替や、洗濯はお姉さんのチエ子さんと一緒にやったんです。
具志川市にいたころに兄弟はみんなよく遊んでいましたよ。
一夫は物干し台から落っこちて頭を2回も切ってるし、今でも傷は残ってるはずですよ。
それに光男は光男でこっちがふざけて 「ホラ、お金をあげるから泣きなさい」っていうと本当に泣いちゃうんですよ。
私もまだ高校生だったからよくからかったりしたんだけど、とにかくみんな愉快でしたね。
世話になった人の証言
当間八重子さん(元琉球放送編成局長の故当間淳氏夫人)
おもしろいグループ
主人が放送の仕事をしていたころに、家に帰ってきては、あたしや娘たちに
「兄弟で歌をやるおもしろい子供のグループがいるんだ。何とか世に出してやりたい」ってよく言ってました。
一度『ワンダフルショー』に彼らが出るときなど、主人が「見ておきなさい」っていうもんですからスタジオまで見学にいったこともありました。
お父様がすごく熱心な方だったですね。
そんなことがあったもんだから、“フィンガー5”って名前でテレビに出てきたときもすぐにわかりましたよ。
主人はあいにく3年前に亡くなってしまいましたけど、きっと“フィンガー5”の活躍を喜んでいると思います。
瑞慶覧春子さん(具志川市立兼原幼稚園の先生)
一年間、無遅刻・無欠席
兼原幼稚園がまだ上平川幼稚園といってたとき、一夫くんと光男くんを教えました。
二人共病気をしない子で、確か1年間は無欠席で通したはずです。
一夫くんはやっぱり長男なんですね。
一度こんなことがありました。
ある時、ご両親がケンカしたらしいんです。
よくある夫婦ゲンカなんでしょうけど、
その日帰りに「今日は僕、一分でも早く家に帰りたいんだ。
お父さんとお母さんを仲直りさせなくちゃいけないんだもん」って言うんですよ。
家族思いで、意志の強い子供でしたね。
山城一平さん(前琉球放送制作部長)
玉元ブラザーズ登場
何年前になるのかな、まだ一夫くんが小学生の頃だったですよ。
ジャズを吹き込んだテープを持参して訪ねてこられてね、確かその時は、“玉元ブラザーズ”って名前だったと思うけど、なかなか面白いグループだったんで、すごく印象に残ってますね。
そのあとで、東京の仲宗根美樹さんのプロダクションに紹介したんですが・・・。
いつもテレビで見ては「やってるわい」と思いながら応援してるんですよ。
国吉登美子さん
(具志川→那覇時代を通じて一番親しかった近所のおばさん)
クラブで飛び入り出演
子供たちの母親の久子さんとは20年来の親友だもんだから、ずっと付き合っているんです。
玉元さんとこが那覇に越していった時は、具志川にいるのが寂しくて、私も那覇に引っ越しちゃったくらいの間柄なんです。
そうなるとお互いにもう家族みたいなもんですね。
私の経営してるお店でクリスマスパーティーをやるときなどは、子供たちが飛び入りで歌ってくれたりしてね、お客さんは大喜びだし、子供たちも得意になっちゃって・・・・。
休みの日にはムーンビーチやインブビーチへ海水浴やピクニックにもよく行ったもんです。
その子供たちが、あんなに立派になるんだもの、久子さんも苦労のしがいがあったでしょうねえ。
兼城ヨシ子さん(父の実妹)
ツイスト大会で優勝
きくおばさんの家から晃を引き取ってから 那覇に移るまでの3年間ぐらいを全員あたしらと暮らしてたんです。
ええ、ここで久子さんがクリーニング屋を開いていました。
当時は、ツイストっていうんですか、腰をクネクネさせて踊るの、あれの大会が、安ケ名や那覇でよく開かれたんですが、上の子たちは必ず飛んでいって優勝したり、入賞したりで感心したもんです。
上江洲カマドさん
お祭りの人気者
沖縄には、結婚式やお祭りなどの祝い事のとき、その最後にみんなで踊ったり歌ったりするメロディーがあって“カチャーシ”と言うんです。
そのカチャーシのうまいのが上の子で、だからお祭りなんかでは人気者だったですよ。
それから、みんなチビの頃は泣き虫だったんですよ。
ケンカのできる子らじゃなかったですね。
それだけに気はやさしいんだね。
親思いでしたね。
玉元善一さん(父の実弟)
不安だった上京
「歌をやるから」って東京へ行った時は不安で仕方がなかったんですよ。
だから、子供たちがこんなに有名になるなんて、夢でも見てるようで・・・。
こっちの身内は数も多いしつながりも強いから、みんなの応援は一生懸命しようと思ってます。
みなさんにもよろしくとお伝えください。
玉元カマドさん(父親の伯母)
神にんがんすんろう
今まで苦労して育ててきた子供たちが、これまで以上にうまく成功するように神に祈っています。
新里守さん(彼らが最初に音楽のレッスンを受けた先生)
レッスン休みは正月だけ
玉元さんのお父さんに頼まれて、引き受けたんですが、初めて顔を合わせたのが一夫くんが小5、光男くんが小4、正男くんが小2でしょ、ビックリしましたよ、こんなに小さい子で大丈夫かなって。
一夫くんがエレキ、光男くんがドラム、正男くんがベースでした。
晃くんには半年ほどたってからほんの少しオルガンを教えたくらいだったかな。
なにしろ、子供たちが熱心でしてね、一年間というもの毎日、本当に正月の二日間休んだだけで連日レッスンでした。
正男くんなどは、自分より大きなベースをかかえて指から血を流して。
とにかく、その情熱には参ってしまいました。
そうした努力のたまものだと思って感心しているんです。
大城フミ子さん(那覇市真和志学校教論)
成績はふつう、音楽は5
当時、私が那覇市内の天妃小学校で3年1組の担任をしていた時に、玉元正男くんが転入してきました。ええ覚えてますよ。
どっちかといえばおとなしい子供で、成績はふつうでした。音楽はやっぱり良かったですよ。
その年に、ご兄弟がそろってテレビに出て優勝したんでビックリしちゃったんですよ、ええ。
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フィンガー5の長女・チエコさんが言っていた
「マイベビーバラバラ」って・・・・!
うたものがたり で少し流れた曲ですよね?
フィンガー5は、ワンダフルショーでその曲を披露していたんですね♪