うたものがたり@フィンガー5『個人授業』 | フィンガー5ファンブログ

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平成生まれのフィンガー5ファン

8月31日(土)に放送された、「うたものがたり」について書きますね♪


ほとんど、ナレーションで語られたことを書こうと思います。


感想は、そのあと書きます。




今日のうたものがたり、1曲目は1973年フィンガー5の「個人授業」

日本復帰前の沖縄から出てきたフィンガー5。

実は一度、ベイビー・ブラザーズの名前でデビューしていました。

鳴かず飛ばずの下積み時代、

それを覆したヒット曲「個人授業」誕生の裏には家族の絆の物語がありました。


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今からちょうど40年前の夏、

日本中を興奮の渦に巻きこんだ

フィンガー5の「個人授業」

この曲と出会うことで、フィンガー5は自らの運命を塗り替えました。

全てはここから始まった、記念すべき一曲です。


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「恋のダイヤル6700」(1973年)


約一ヶ月でオリコン一位を獲得

100万枚のレコード売上を記録




フィンガー5の5人は沖縄で生まれ育ちました。


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フィンガー5の母・玉元ヒサエさんは

今も沖縄で暮らしています。



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ヒサエさんが夫の松市さんと結婚したのは

今から60年前

沖縄がまだアメリカの統治下にありました。


二人はAサインバーを経営していました。

Aサインバーとは

「アプルーブド サインバー」の略称

米軍がアメリカ兵の立ち入りを許可した店です。



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長男・一夫

当時19歳


一夫「もうね、これからもね、

兄弟一同ね、力を合わせて、頑張ろうねって

それだけいいたいと思います」


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長男の一夫さん

15年前に病気を患い

今は、母のいる沖縄に戻って生活しています。


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光男「(兄弟でケンカすることある?)

えっと毎日やってますけど、すぐ仲直りします」


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次男の光男さんは、東京で美容師をやっています。

いつも陰ながら兄弟をまとめていました。


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正男「好きな女の子のタイプは、

優しくて、何しろこういう僕たちの仕事に理解のある人です」


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三男の正男さんは、

東京で沖縄料理の経営しています。


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晃「女の子、好きなときもあるけど、

嫌いになる時もある。

(恋人いますか?)

恋人ね、いません」


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四男の晃さんです。


サラリーマンを経て、

ミュージシャンとして再びステージに立っています。


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妙子「(好きなものなぁに?)

えーとー・・・・・お母さんかな」


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末っ子の妙子さんです。


結婚し、母親として忙しい毎日を送っていました。




フィンガー5のはじまりはギターバンド

いつかは本土で演奏をと思うようになりました。


光男「本土って特別なところで、

やっぱ憧れとかってみんな思っていたと思うんですけども、ちょっと行ってみたいなぁ。

やっぱ一度は行ってみたい。

今でもそうだと思うんですけども、

ちっちゃいながらに違うところなんだろうなと思っていたので」


子供たちの夢は、両親たちには認められるものではありませんでした。


お母さん「どうしても行くって言うから

諦めさせようとするけど、やっぱり聞かないわけよ」


両親が何といおうと、本土へ行って音楽をしたい。


兄弟を引っ張っていったのが、長男の一夫さんでした。


一夫「みんな頑張って練習して、ちゃんと出来るようになったら、あの港の船に乗って東京に行こうよ。

沖縄から引っ越さなきゃいけない。

友達もいなくなるけど、でも芸能人になるからいいよね。

頑張ろうねって(下の二人に)言うと、

「うん」って言うのよ」




しかし当時の沖縄では、本土へ行くにはパスポートが必要でした。

しかも直接渡れず、鹿児島県の徳之島で、ビザがおりるのを待ちます。


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一家が鹿児島から特急に乗って、ようやく東京に到着したのは、

1968年のことでした。


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上京後に住んだ都心のアパートでは、

楽器の音がうるさいと追い出され

郊外に一軒家を見つけ、転がり込みました。


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当時、父親が撮影した貴重なフィルムです。




光男「すべてのスタートはここだと思います。

ひとつひとつの家が離れていて、

練習の時もそれなりの音をだしても大丈夫だったので」


この場所から学校へ行き、練習し、プロを目指します。


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とにかく演奏したい。

何のすてもない東京で、長男の一夫さんが走り回って手にしたチャンスが、イベントまわりでした。


沖縄と同じように、彼らが演奏したのは、英語のナンバーでした。


しかし沖縄とは勝手が違いました。


正男「英語歌ってもお客さん見てくれないし、

ただこう、もの珍しさだけで、

そういう冷ややかな目で、見られて、

スッて帰られてしまう僕らがいるし、

こんだけ楽しかったのにステージが、

だんだんだんだん落ち込んでくるようになって

そこが多分一発目の挫折だね」




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上京して2年、ようやくレコードデビューが叶います。


名前はベイビー・ブラザーズ

子供5人組が売りでした。


しかし鳴かず飛ばす。


そもそも子供たちが得意とするアメリカンポップスも歌わせてもらえませんでした。



先の見えない本土での暮らし

両親は沖縄に戻るべきか悩みます。


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しかし親を踏みとどまらせたのは、

子供たちの必死の姿でした。


正男「靴履いてんのか沖縄は、とか

英語しゃべれんだろ、しゃべってみろよとか、言われて、自分たちのそういう嫌なところは全部音楽にぶつけてた」




ここでチャンスの光が一筋差し込みます。


彼らの5人の未来に、運命をかけてみようという人物が現れました。


5人がデビューしたレコード会社にいた

今は亡き、井岸義則さんです。


矢沢永吉率いるキャロルを売り出したディレクターでした。


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これは井岸さん自らが録音した

フィンガー5の貴重な6mmテープです。


収められていたのは、基地で演奏していたソウルナンバー


自らのレコード会社をやめ、

5人をひきつれ、このテープを手に、

別の会社に売り込みをかけます。



業界で名をはせていた作詞作曲のゴールデンコンビ

作曲家・都倉俊一

作詞家・阿久悠

井岸さんは、一斉一代の勝負にでます。


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二人の目の前で、彼らに、得意のナンバーを歌わせたのです。


晃「小学校6年生だよ?

歌の大先生の作曲家なんてわからないじゃない

周りがみんなビビっててもさ

俺は分からないもん

でもその人たちは一生懸命

クリックリッした目で見てたよ

楽しそうに見てた」


都倉俊一「晃の声に、しょくはつされたのは間違えなく事実ですよ

でもね、もうアメリカ!って感じだったんですよね」


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兄弟がまとう強烈なアメリカの空気

それが作詞家、作曲家の創造力を大いに刺激します。



NHK「公園通りで会いましょう」(2002年放送)


阿久悠「あのフィーリングで歌えるっていうのはね、

日本の小学生というよりはね、アメリカの小学生

イメージの中では、ローラースケートと、

町なかにあるバスケットボールとソフトクリーム

それに見合うものをやりたいと」



そして誕生したのが、日本語によるアメリカ青春映画の世界

それまでの歌謡曲にない斬新なものでした。


正男「やっと、出会えたかなって

自分たちの好きなサウンドで」


晃「俺が求めてるのはこれだと思った」


レコーディングでも5人は、大人たちを圧倒


それは、兄弟同士のライバル心がもたらしたパワーでした。


晃「日本で一番うまいのは正男兄ちゃんだと思っていたから、

この人を抜かしさえしれば、俺が日本一になれると思っていたから」


レコーディングの中で、晃さんが編み出した独特な歌い方も更に曲を輝かせました。


晃「ビブラードの入れ方をかえていいとかね」




1973年8月「個人授業」発売


「個人授業」は発売3ヶ月でオリコンチャート一位を獲得

レコード売上は、100万枚を突破しました。


沖縄から夢を抱いて本土へ、

5人の兄弟と、両親の苦労が報われた瞬間でした。


「個人授業」は家族の絆が生み出した歌なのです。





光男「未だに、フィンガー5はなくなってはいますけど、5人の中ではあるんです。

単なる兄弟で集まろうじゃなくて

フィンガー5の、玉元兄弟

それほどすごかったんだと思うあの経験は」



「個人授業」から40年を期に、みんなで都合を合わせ集まることになりました。


場所は正男さんのお店です。


兄弟全員と、母親のヒサエさんが会うのは、久し振りです。


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光男「兄弟の多い家族はたくさんいるんだと思うんだけど、

うちみたいに音楽を通してみんなが繋がってるってそんなにないから」


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晃「兄弟じゃなきゃできない音楽やってたからね

多分他人だったらあの「個人授業」もしおんなじ曲があったとしても

違う音楽になってたかも知れないですね」



今や全員がオーバーフィフティーの兄弟

彼等5人揃ってヒサエさんのために、歌うことになりました。



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なかなか濃い内容でありましたね。


BSが見れない方も多いみたいで、

今回もブログにあげました。


今回は、感想を最後にし、完全ナレーション部分を書きました。

あとは、本人の言葉ですね。


そのため、いつものテレビレポより長いです。スミマセン。

略したところも多いので、読みにくいと思います汗



私の感想を書くと、


まず、たくさんの貴重な映像、写真をありがとうございます。

デビュー間もない頃のフィンガー5だとか・・・ラブラブ


私は、今回のテレビで初めて、

お母さん、妙子さん、光男さん、一夫さんのお声を聞いたと思います。


みなさん、子供の頃の声と、あんまり変わっていなくて・・・・

光男さんは特に、子供の頃の喋り方で、声も同じでした。


フィンガー5のお母さんは、80近くなのに、お元気で、

私のおばあちゃんと10歳も違うのに、

足腰強くて・・・・

何より、今でも元気な姿が拝見でき、幸せでした。


度々、「ハロー!フィンガー5」の映像が出てきて、

映画の映像、残っているならDVD化早くしてほしいですね(笑)


それから、最後のほうに、「個人授業」の映像がフルで流れましたね♪




ところで、東村山の家の写真は、感動でしたね。

当時の車だとか、家の全景が見れて♪


それから、お父様が撮影された、

晃と妙子ちゃんが学校へ行く様子

ちっちゃい二人が、後ろ姿しか見れませんでしたが、可愛かったですね

お母様も若い!

お父様ナイスです(笑)




井岸ディレクターが録音した、

フィンガー5のデモテープ、

あれは全部、1973年夏に録音したものだったんですね。


その音源は、CDBOXに収録されてますね。


ただ、一つだけ謎なのは、

「赤いキッス」はいつ録音されたものなのか?


「赤いキッス」もデモ音源として収録されていますが。

ケチャップのCMのカヴァーです。


それはまた別に録音されたものなのかなぁ。





そして!

私が、19日に正男さんのお店に行ったときと、

店内の装飾など、同じでしたね。


7月に撮影されたんでしたっけ?


正男さんのライブのチラシだったり、

ベスト盤のチラシ、

オリジナルTシャツなどなど・・・・




正男さんのお店で、

フィンガー5全員で、お母様に「個人授業」を歌っていたとき、

お母様は泣いていました。


お母様の泣いた姿を映して、フィンガー5の物語は終わりましたね。






はい!


レポ・感想と長くなってしまいましたが、

いかがだったでしょうか?


ご覧になれなかった方、少しでも共有できたらそれで嬉しいです。


フィンガー5の40周年の年に、特集番組が放送され大満足でしたね。


また、こういう番組が組まれることを願って・・・・・



Fin.


コメントお待ちしております。