4/26の午後に、東電から電話がありました。
「7つほど話がある」と切り出された最初の一つ目で、私は撃沈
数日間悩んでいましたが、ようやく重い腰を上げ、同級生のササキ氏に相談し、
商工会議所内の窓口へ行く決心をしたのです。
秘書のカトウも同行させました。
震災直後に私は避難所から一人戻り、
親の仕事や家の事情で避難ができない・・・もしくは、避難先から早々に戻って来て
隠れるように家に閉じこもっている子どもたちに、
学校の代わりになれば・・・と、ミニスクールを立ち上げました。
初日だけ7人ほどでしたが、毎日毎日、湯水が溢れるように
鹿島区や石神地区の、遠い地域の、子どもの足では通えないところから、
無料の学習会に連日数十人が通ってくるようになりました。
7万人から1万人に減ったと言われた南相馬の、いったいどこにこんなに子どもが居たのか?と、驚くほどの賑やかさでした。
私の携帯は、知らない番号から問い合わせの電話が頻繁に入り、手放せなくなっていました。
2011.4月・・・相馬市、福島市、いわき市では学校は始まりましたが、南相馬市だけが取り残されたのです。
他地区がスタートしたのに、我が子が学校へ行けないと知ると、若いママたちは焦り出しました。
相馬市では、住民票を移さないと、南相馬の子どもたちは学べないと拒否もされました。
やむを得ない判断だったのかもしれません。
幸い、気丈なうちのスタッフたちは、まったく避難しなかったイワサキをはじめ、
埼玉に避難するも、呆気なく戻ったオオタが帰っていました。
他にも教員を志望するケイスケやマキ。
進学先も混乱していて学校が始まらずにいたリナ、サキ、リョウなどが、
一声掛けたら
飛んできて手伝ってくれたのです。
本当にありがたかったし、心強かったです。
私は大切に保管してあった教材を、見事なほどに大盤振る舞いをし、
たくさんのお母さん達から感謝されたものです。
その後、5部屋あった100人の生徒の居場所である教室は、閉鎖に追い込まれました。
100人⇒0へ・・・・
全ての子どもが避難でいなくなった私の教室は、
4月22日の小中学校の仮設校舎での学校再開、
5月9日の原町高校のサテライト校での授業再開で、
ミニスクールも任務を終えて、閉鎖しました。
大家さんから、小高区の方で、自宅に帰れない方が家を探しているから、もし教室を再開しないのであれば、明け渡してはもらえないだろうか・・・?と、相談を受けた時、
自己破産を弁護士に勧められていた私は、あっさりとその話しを受けました。
せっかくの建物が、教材の物置小屋ではもったいない・・・
私は快諾し、スタッフや保護者の皆さまのお力をお借りして、泣く泣くトラック4台分の教材や資料を処分したのです。
私にとっては、教材が財産でした。
毎年毎年、幼稚園から高校3年生までのレベルの違う教材を揃えるのは、大変な金額がかかります。
それでも、能力には個人差があり、同じテキストが使えない子どももいますので、
多種多様の教材を購入、使用していました。
教室の物置場には、教材整理棚があり、子どもたちは自分の好きな教材を選べるようにも工夫していました。
コピー機もフル稼働していました。
東電の電話をかけて来た職員は、私にこう言いました。
「無料の学習会も、
トラック4台の処分したテキストも、
新しく塾を再開するのに購入した教材も、
番場さんの意思が働いたことです。
あの事故との因果関係はありません。
ですから、賠償金の支払いには値しません」
そこで押し問答があり・・・
7つあると言われた一つ目の話で、私は撃沈しました。
もう小学生が帰ってくる時間にもなります。
「もう電話切らせてください」
私はそう言って電話を切らせていただきましたが、
本日確認した南相馬常駐の東電社員に、かの電話の主は「電話切られた」と報告したそうです。
期待を裏切るようですが、私はそこまで非常識ではありません。
私は、南相馬の東電職員に言いました。
「あなたがたも毎日毎日頭を下げて、大変だろうと思います。
でも、すべてを失った私の思いも汲んでください」
ある日突然、生徒を失いました。
収入も途絶え、貯金も食いつぶしました。
その思いがわかりますか?・・・・・・・・・
南相馬の職員さんたちは、一斉に起立して全員が頭を下げて見送ってくれました。
ただのパフォーマンスなのか、心底なのか、相手の気持ちは読めませんでした。
「トウデンカラデス」
教室の電話が、そう告げると、私の心臓の鼓動は早まります。
また、きっと、お互いに嫌な思いをする・・・とわかりきっているからです。
いつまで続くんでしょうか・・・?この嫌な思い・・・
あの事故が原因でなくて、私の生徒や収入が一瞬で消えたというのなら、
賠償金は一体だれが頂けるものなのでしょうか?
どなたかに教えていただきたいです。