I〜IVは個人が非我であるというポジションから「定」を説いた。I〜IVを教学した上で、Vはトップダウンで説明する。




我の置き所として捉えると分かり易い。


おさらいとして、今の私達の我は固定不変ではない。カルマに立脚した五つの要素の集合体(我)である。


縦の段々のどこのぐるぐるに我(五つの要素のスタート地点)を置くか。



例えば、我の置き所が慈悲慈愛(梵)であれば慈悲慈愛以下がぐるぐると回る。


我の置き所が美徳であれば、美徳以下がぐるぐる回る。


我の置き所が責任であれば、責任以下がぐるぐると回る。


我の置き所が悦楽(怠惰、苦)であれば、悦楽以下がぐるぐると回る



我の置き所が梵であっても大乗(段々の世界)の中で段々の下の方のグルグルの干渉を必ず受ける。この悪業の清算(悪業消し)が大乗の実践である。


干渉を受けるとデフォルトの我の置き所から必ず下に引っ張られるが、それが今迄の悪業消しという真理を忘れずに、出来る限り梵を継続する。


未熟な私達の大乗の実践においては、どうしても梵を継続出来ないタイミングが来る。下位の段が干渉して来て強い力で引っ張られるから。


引っ張られる際、普段我の置き所を梵で実践継続している場合は、すぐに次の美徳である帝釈天(全解決の武人)まで落ちて、次の美徳(毘沙門天(資本(ヒト、モノ、カネの解決の武人)、持國天(団体性に仕える武人)、増長天(恵みを与える武人)、広目天(全体を見る武人)の四天王が一緒に通る。(深い五つの要素)(上記は全体へ戻ろうとするエロティシズム。)(阿修羅的な人、人間主義的な人への対機説法としては、水元素、火元素がかなり深い状態で非行為的に振る舞われる状態。)


普段梵の実践、継続がないと帝釈天や四天王あたりで止められず、阿修羅(対立関係の中での解決)にまで落ちます。例えば、普段四天王あたりだと大乗の実践において、すぐ阿修羅に落ちる。(阿修羅の際は悦に触れず、バラの世界の中でも五つの要素の内個人が分かる要素、火、水元素を意識する。)

阿修羅に落ちると、最悪人間(普通の生活があるし、まあいいか)まで落ちる。

人間(普通の生活があるし、まあいいか)まで落ちると、畜生(怠惰と恐怖、緊張)まで落ちる。

すると恐怖を避けた事で生起する餓鬼(ロマンス空間の獲得(悦、苦、怠惰、恐怖)まで落ちて、地獄(圧倒的恐怖の連続)まで落ちる。


人間の事を人間個体(単体)と言う人間がいるだけで、実際は「我(五つの要素)」しかない事実が在る。(※これをチェックして分かる必要がある。)よって我の置き所(バクティヨーガ)によって五つの要素(現実)が決まるのである。(生産深部寄り五つの要素が深い人と知り合ったら全体寄りになるのと同じ。)


つまり人間の肉体以上の要素は人間にとって神性な(生産側からの)要素であり、最も神性な要素に我を置いて(慈悲慈愛に我を置いて)トップダウンを成さない場合は成長はかなり遅くなる。


例えば人間の肉体作用(味覚を感じる、視覚を感じる、嗅覚を感じる、聴覚を感じる、触覚を感じる、思考を感じる主体。最上がセックス、スポーツ、スクリーン)に我を置いた場合は、人間世界のモノ(セックス、スポーツ、スクリーン)と常時つながっていない限り、即刻畜生(怠惰と恐怖、緊張)に落ちる。すると餓鬼(ロマンス空間の獲得(悦、苦、怠惰、恐怖)に落ちる。(ロマンス空間の獲得は人間界のスクリーンに対する愛著)



観ずれば、私(五つの要素)は梵に常住を心掛けて、その常住からの脱却を我所とする仏陀の教えに感銘を受けている。大乗の場で形態に引っ張られる際は帝釈天から四天王あたりに住む。強い形態化の場では未熟さから阿修羅に迄落ちる時もある。昔は阿修羅に住み人間の方面に引っぱられながらも、諦めずに毘沙門天を模索した。

日常で徹底的に我を梵に置けば、仕事の場(大乗の場)において毘沙門天は同時に表現される四天王の内の一つの神性として基本になる。決定的だったのは若い頃に阿修羅的な対立関係の解決の模索(阿修羅)を行動の論理前提で諦めなかった事。尋伺(眼前の対象の生産関係の探求)によって、日常中に溢れる自然の経過を明示するメモを取り続けた事。次に現状のサンスカーラの全体(私の場合は常住性)の視覚的な経験(三昧の経験)によって、我を梵寄り置けるよう(平時の場合)になった事である。


現状の日本では地獄に落ちる者は少ないが、畜生と餓鬼に落ちる者は多い。我を梵に置いて、◾️から決して離れるな。(我を日常で梵に置いていれば、◾️から離れようが無い。)