夏の風景 特別編(下) 怪談ウナギ | 水本爽涼 歳時記

夏の風景 特別編(下) 怪談ウナギ

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    特別編(下) 怪談ウナギ        


 今日も茹(う)だっている。外気温が優に三十五度はある。夏休みだから、僕は洗い場で水浴びをした後、昼寝をしようとしている。滾々(こんこん)と湧き出る冷水のお蔭で、僕の体温は、かなり低くなり、生温かい畳が返って心地よいくらいだ。父さんは日曜ではないが、夏季休暇で書斎へ籠り、恐らくはクーラーを入れたまま読みかけの本を顔に宛行いつつ長椅子で寝ている筈だ。その姿が僕には手に取るように浮かんでくる。じいちゃんも、たぶん離れで団扇バタバタだろう。母さんだけはPTAの集会で昼前に家を出た。役員だから仕方がないわ…と云って玄関を出たが、御苦労なことだ。結局、家の者で奮闘したのは母さん一人であった。無論、いつもは父さんが微力ながらも孤軍奮闘しているのだが…。

 母さんは五時前に帰ってきた。途中で鰻政に寄ったようで、手には鰻の蒲焼パックを袋に入れて持っていた。

「今日は土用の丑だから、夕飯は鰻にしたわ…。それにしても高くなったわね…」

 そんな苦情を僕に云ったって、物価が高くなったのは僕の所為(せい)じゃない。まあ、そんなことは夕飯の美味しい鰻丼を賞味したことで忘れてしまったのだが…。

 その晩、僕は怖い夢を見た。僕の家は平屋構造の日本家屋だとは以前、云ったと思うが、僕はその中の一部屋を与えられている。部屋は四畳半で、父さんと母さんの部屋からは廊下越しに少し離れた所にあった。二年前のリフォームの一件もお話しした筈だが、そのリフォームは大部分が僕の部屋で、大工の留吉さんが腕に縒(よ)りをかけて作ってくれたのだ。それは誠に有難かったが、生粋の日本男児の僕には、どうも馴染まず、未だに寝心地が悪くて夢を見ることが多々あった。その夜は熱帯夜だったこともあり、寝苦しさから一層、夢を見やすい状況だったと推測される。状況は兎も角として、夢の内容は実に怖いものだった。今、思い出しながらお話ししても、身体が震えだすほどである。

 夢で見た僕の家は江戸時代のお武家だった。じいちゃんは二本差しの颯爽とした武士の出で立ちで、城から戻った風だった。じいちゃんの直ぐ後ろには、小判鮫のように、これも武士の身なりの父さんが細々と付き従っていた。

『今、立ち戻った!』 『お帰り、なさいまし…』

 じいちゃんと母さんは、そんな会話を交わしていたと思う。母さんは勿論、お武家の奥方の容姿で二人を迎え入れた。そこで場面が変わって、次は夕餉の膳を前に皆で鰻を食べていた。賑やかに、じいちゃんが笑っていた。そしてまた場面が変わり、僕は布団で寝ていた。すると、僕の枕元に鰻の妖怪が立ち、寝ている僕の肩を揺り動かしたのである。その面相たるや、口にするのも憚(はばか)られるほど、おどろおどろしいもので、今、お話しする間も口元が震えている。その妖怪鰻は何かを話していた。その言葉がよく聞き取れないにも拘(かかわ)らず、僕はその内容が分かるのだった。妖怪鰻が語るには、僕が食べた今日の鰻は自分で、成仏、出来ずに化けて出たのだという。僕はしきりに、僕の所為じゃない! と喚(わめ)くのだが、妖怪鰻は問答無用とばかりに僕の首を両手で絞めつけるのだ。これも今、思えば妙な話で、鰻に手がある訳もなく馬鹿げてはいるのだが、夢の話だから仕方がない。僕は、どうすれば許して貰えるのかと問うた。すると妖怪鰻は、自分の息子が斯(か)く斯くしかじかの小川で干上がりかけているから助けてくれれば一命は取らずにおこう…と、偉そうに云う。鰻に偉そうに云われる筋合いはない、とは思ったが、息苦しかったので、そう致します…などと敬語遣いで命乞いをしたようだった。怖かったのは、その小川を僕が知っていたことである。その時、目が覚めた。まだ辺りは暗闇で、時計の針は二時半過ぎを指していた。その後、寝つけなかったものの、早暁には微睡(まどろ)んで、朝を迎えた。枕元は気の所為か、多少、畳が湿気を帯び、生臭かった。

「おっ! 今朝は儂(わし)と互角に早いぞ、正也」

 じいちゃんが洗顔をしようと離れから現れたのは、僕が歯を磨き始めた時だった。

「なんか、よく寝られなかったんだ…」

「そうか! 昨日は、熱帯夜だったからな。実は儂も、そうだ」

 と、じいちゃんは笑いながら放つと、某メーカー製の洗剤で磨いたような光沢を放ち続ける禿げ頭を、片手で捏(こね)くり回した。

「それにさ、怖い夢を見たよ…」

 じいちゃんは僕の隣で顔を洗いながら詳細を訊ねた。僕は昨日の、おどろおどろしい夢の一部始終を洗い浚(ざら)い、じいちゃんに語った。

「ほう…、それはフガフガフガ…。フガフガフガガした方がフガだろう」

 じいちゃんは顔を洗って入れ歯を外したから、こんな口調となった。通訳をすれば、『ほう…、それは怖かったろうな。そのお告げのようにした方がいいだろう』と、なる。

 ポチを散歩させ、ラジオ体操へ行き、帰ってポチやミケに餌をやって朝食となる。

「父さんに聞いたんだが、悪い夢を見たんだってな、正也」

 夢の話は既に、じいちゃんから父さん、母さんへと伝わっていた。

「ん? まあね…」

 僕は咄嗟(とっさ)に、ここは三猿の“云わザル”だな…と思え、単に一語で片付けることにした。そう簡略化されては父さんも二の句が継げない。

「ふ~ん、そうか。寝苦しかったからな…」

 と云って終局させると、胡瓜(キュウリ)のお新香をバリバリっと噛った。

 父さんが出勤し、僕は夏休みの宿題を済ます。じいちゃんは畑の見回りだ。母さんは? と見ると、家の雑用を熟(こな)している。僕は、夢で見た小川へ早速、行ってみることにした。椅子を立つとミケが「ニャ~」と云い、玄関を出ると、入口でポチが「クゥ~ン」と云った。

「暑くならないうちに戻るのよっ!」

 目敏(ざと)い母さんは、レーダーで僕を見ているようだった。

 夢に現れた小川へ行くと、確かに…お告げのように一匹の子鰻が干上がりかけた水溜りにいた。僕は急いで本流の方へと、その子鰻を両手で掬(すく)うと逃がしてやった。勢いよく子鰻は泳ぎ始め、そのうち、どこかへ姿を消した。

「そうか…、まあ、いいことをした訳だな。正夢だったか、ワハハハハハ…」

 じいちゃんは畑から帰ってその話を僕から聞くと、そう云って豪快に笑い飛ばした。

「それはいいけどさ、枕元が濡れてたのが…」

 僕は今朝、起きた時の超常現象について語った。すると、近くで洗濯機を回していた母さんが、「あらっ! それ、私なの。うっかり、掃除をした時、バケツをね…慌てて…」と、云った。

「そうでしたか…」

 じいちゃんが、ふたたび大笑いをした。僕も釣られて笑い、母さんも釣られた。偶然、その時、携帯が鳴り、母さんに電話が掛かってきた。会社にいる父さんからだった。

 用件を云い終えた父さんは、母さんからその話を聞いて、『なんだ、そうだったか…。ハハハハハ…』と笑ったそうだ。これが、この夏、起きた我が家の怪談ウナギである。

 ただ一つ、夢の子鰻は確かに小川にいた…。

                                       夏の風景 特別編(下) 了