他人の時間 | れぽれろのブログ

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8月1日の土曜日、「他人の時間(TIME OF OTHERS)」と題された展覧会を
鑑賞しに、中之島の国立国際美術館に行ってきました。

国立国際美術館はアジアの作家さんの美術作品の展示に積極的です。
2008年には「アヴァンギャルド・チャイナ」と題された中国の現代美術作品の
特集展示がありましたし、
2011年の「風穴 もうひとつのコンセプチュアリズム、アジアから」においても
アジア地域の多くの作家さんの作品が展示されていました。
(この展示は東日本大震災の直後に鑑賞したので、とりわけ印象的です。)
本年初頭にも、インドネシア出身の作家フィオナ・タンの特集がありました。

今回の「他人の時間」展は、東京都現代美術館、国立国際美術館、
シンガポール美術館、クイーンズランド州立美術館の4つの美術館の協力の元、
タイトルの通り「他人」と「時間」をテーマにした作品を中心に、
アジア・オセアニア地域を中心としたワールドワイドの作家さんの
様々な作品が展示されていました。

以下、感じたことや覚書などを残しておきます。


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本展覧会は「他人」と「時間」を軸に多くの作品が展示されており、
様々な鑑賞方法が可能な展覧会だと思います。
全体を通して、自分は「他人の時間」ということについて、
「西洋に対する他者としての日本・アジア及びその歴史」という軸で鑑賞しました。
個別の作品については様々な捉え方ができると思いますが、アジアの美術を
鑑賞する際、自分はどうしても西洋との比較で考えてしまします。

現代の美術の枠組みの多くはまず西洋で形作られました。
油彩画・彫刻・写真・映像作品・その他のメディアアート等、現代の多くの
作家さんによって発表されている作品の表現方法は、西洋由来のものです。
そして、そもそも美術館(様々な作品を一定の方針に従い蒐集・所蔵・
展示する施設)という設備自体が西洋近代以降に作られたものです。
日本はとくに19世紀以降の近代化の際、積極的に西洋美術に触れ、
それを模倣し、その手法を取り入れ、一部自国の文化と折衷させながら、
自国の美術を発展させてきました。
その他のアジア諸国の美術史については自分は詳しくありませんが、
概ね日本と同じように西洋美術を吸収していったのではないかと思います。

自分の中でも、美術といえばまず西洋美術であり、
日本美術を鑑賞する際にも西洋美術との比較で捉えることが多いです。
日本美術を西洋美術から見た「他者」として捉え鑑賞することにより、
西洋との差異から日本美術の特質が見えてくる。
本展覧会においても、西洋との差異を考えることにより、
アジアとはどのような場なのかを感じ取ることができるのではないかと思います。


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まずは近代の中のアジアということを思わせる作品について。

ヒーメン・チョン(シンガポール)の「カレンダー 2020-2096」は写真作品です。
2020年から2096年までの各年77枚、及び各月77×12=924枚、
計1001枚のカレンダーが壁一面に展示されており、それぞれのカレンダーは
シンガポールの様々な場所の写真とセットになっています。
「時間」を意識させる作品ですが、この写真を見るのが非常に楽しい。
写真には人物は不在、被写体は主に屋内が中心、オフィス・店舗・劇場・
遊戯施設などの様々な部屋が写されています。
いかにも現代の近代都市風景といった写真たちで、
一見するとアメリカやヨーロッパの都市と変わりありません。
ですが、ときどきアジア風というか、シンガポール風、インド風、中華風の
色々なものが写りこんでおり、ここはやはりアジアなのだということが細部を
観察すると分かります。
何だか日本のように見える写真もあり、日本製の設備なのではないかと
いうものが写っている写真もあります。
近代化・グローバル化は世界を均一化していき、各地域に元々あった特徴を
消失・変質させていきます。
この各写真も近代的で無個性な写真が多いですが、
しかしその中でときどきハッとするような民俗的なものに遭遇します。
カレンダーの最終年は2096年、この時代になると今より世界は
均質化しているのでしょうか。
それとも、近代の荒波によって変質させながらも、
民俗的なものの片鱗が残っているのでしょうか。
それはどのような形で残っていくのか、そして2096年の時点でこの作品を
鑑賞した際、その時代の人はどのように感じるのでしょうか。
そんなことを考えながら興味深く鑑賞しました。

グレアム・フレッチャー(ニュージーランド)の「部族嗜好のラウンジ・ルーム」の
シリーズは油彩画です。
こちらもモダンな室内を描いた作品ですが、
一部民俗的なものが挿入され描かれています。
近代化・グローバル化により民俗的なものが変質していくというより、
民俗的なものの片鱗が作品に違和を与えているような印象を受けます。


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続いてはアジアの時間(歴史)を感じさせる作品について。

今回の展示では、アジアの歴史を取り扱った作品が非常に多いです。
フィリピンのデモの写真を取り扱ったキリ・ダレナの「消されたスローガン」、
ベトナム戦争を扱ったヴォー・アン・カーンのシリーズ、
アラブ人によるインドネシア独立運動を扱ったサレ・フセインの「アラブ党」、
カンボジアのクメール・ルージュの虐殺を扱ったヴァンディー・ラッタナの「独白」、
など。
そんな中、とくに印象的なのが以下の3作品です。

ホー・ツーニェン(シンガポール)の「名のない人」は、1930年代~40年代に
マラヤ共産党の幹部であったライ・テックなる人物の評伝です。
ライ・テックは様々な偽名を持ち、本名すらよくわかっていない人物、
当時のアジア諸国で共産党のスパイとして活躍した人物で、
戦時下においては日本軍との関わりもあった人物なのだそうです。
この作品ではライ・テックについて、様々な映像のコラージュとともに、
音声で解説される作品です。
登場する映像はおそらくは映画やドラマなどのフィクションの中の映像。
この映像の虚構性と実在した人物の解説のマッチングが、
なんとも言えない不思議な感覚を呼び起こします。
西洋史において、この時代はコミンテルンが世界規模で拡大していた時代で、
日本でも共産主義が農村にまで広がりを見せていたことは理解していましたが、
東南アジアの状況はよく把握できておらず、西洋史から見た他者としての
アジア史の一面について、興味深く鑑賞しました。
同時に「フィクションのコラージュ」という手法が面白く、画面の中で起こっている
ことは深刻なのですが、
いかにも演技的な(クサイ芝居を含む)雰囲気が
ドキュメンタリー的な深刻性に加えて、どこか諧謔的な雰囲気を感じさせる
ところも面白いです。

ミヤギフトシ(日本)の「The Over View Rsort」は、沖縄戦を扱った映像作品。
沖縄の美しい風景に、終戦後の沖縄の収容所体験に関わる独白が
重ねられます。
この作品は非常に叙情的な作品で、美術館で上映されるヨーロッパやアメリカの
映像作品では、少なくとも自分はこのような作品はあまり見たことがありません。
この作品はBGMとしてベートーヴェンの弦楽四重奏15番の3楽章が使われており、
これが泣けます(笑)。
この音楽が、独白の中の収容所のラジオから流れてくるベートーヴェンの
音楽のシーンと重ねられ、ラジオを聴いている米兵が「この部分が好きなんだ」と
言う部分がちょうど、
この楽章の第2主題("A-B-A-B-A"形式の"B"の部分)と
重なります。
この部分は多くのクラシックファンの涙腺を緩ませる(笑)効果があるのでは
ないかと思います。
自分はクラシック音楽が非常に好きなので、
この米兵の「この部分が好きなんだ」には非常に共感できます。
しかし、西欧の音楽の記憶をベースにして、沖縄の過去の収容所の体験と
繋がるということはどういうことなのか、アジアの歴史の中の自己と他人とは
何なのかという、非常に複雑な思いで鑑賞しました。
同時にこのような「安易に泣ける」叙情性は容易にプロパガンダに
変異するという面もあります。
このあたりはひょっとしたらアジア美術の優しさと危険さなのでは、
などと思いながら鑑賞しました。

下道基行(日本)の「torii」シリーズも非常に印象的です。
日本が戦前にアジアの植民地に設置した鳥居の現在の状態を撮影した
写真のシリーズで、韓国、台湾、サハリン、サイパンなどの写真が
展示されていました。
台湾では鳥居は倒されており現在はベンチのように人が腰かけています。
サハリンでは鳥居は緑の丘の上にぽつんと現在も存在しています。
サイパンでは鳥居は墓地にあり、キリスト教風の墓地に鳥居があるという、
不思議な空間になっています。
他人である日本人が設置していった鳥居が、時間を経てどのように
変容していっているか、近代の歴史を考える非常に面白い作品だと思います。


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近代における西洋とアジアというと、
搾取者としての西洋/被搾取者としてのアジア、
という構図がどうしても登場してきます。
現在は帝国主義的な植民地政策こそなくなりましたが、グローバル化した
欧米系列の企業が自国・他国の労働者からなりふり構わず搾取していくという
構図は変わることなく、
場所によってはより強化されているとも
いえると思います。

バスィール・マハムード(パキスタン)の「つくりもの」はどうしてもこのようなことを
思い出してしまう映像作品で、スーツを着なれていないパキスタン男性が
ぎこちなくスーツを着るというそれだけの作品なのですが、
なかなか興味深いです。
西欧発祥のスーツというアイテムに対し、被搾取者としての途上国・労働者層と
いう対応を、否が応でも思い出してしまいます。

プラッチャヤ・ピントーン(タイ)の「取るより多くを与えよ」は非常に複雑な作品で、
解説がないとよくわからない作品だと思いますが、やはり
グロバール化した資本/被搾取者としてのアジアという構図が
非常に印象深い作品です。
会場には、スウェーデンの食品会社によって雇われたタイの労働者の
生活の映像、及びその労働(ベリーを摘む)の状態を監視する塔が
展示されています。
さらにこの作品では、549kgの何かを、会場によって自由に選択し展示するという
指示があるのだそうです。
549gとはこの労働により2か月の間に採取されるベリーの総量と同じ重さ。
この国立国際美術館の会場では、果実、鳥、祭壇などの彫刻作品を展示し、
ベリーが搾取されるといったようなイメージが喚起される展示になってました。
スウェーデン-北欧-福祉国家というと、なんとなく綺麗なイメージを
持っている方も多いと思いますが、やはりその背後にはグローバル資本による
搾取の構造があります。
それはちょうど20世紀の高度成長時代の日本が、第三世界から間接的に
搾取することにより、一億総中流の時代を実現したこととも重なります。
しかし、映像の中のタイ人のある種の楽観的な雰囲気の映像を見ていると、
何が幸せで何が不幸なのかは一概には言えず、
非常に複雑な気分になってきます。


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諧謔性と叙情性ということで、もう2つほど。

キム・ボム(韓国)の「海がないと教えられた船」「変身術」は非常に
馬鹿馬鹿しくも面白い作品で、どちらも「もの」という「他人」を扱った作品です。
「海がないと教えられた船」は船に向かって地球の歴史を語りかける人物の
映像が延々流れる作品。
「変身術」はものに変身する方法が記載された本で、会場ではこのうち
「はしごになるための方法」の説明書きが展示されていました。
個人的により面白いのは「変身術」の方で、
人がはしごから落ちても助けてはいけないとか、
人が見ていないときはラクにしていてもいいとか(笑)、
妙なおかしみがあります。
単なるユーモアというよりは、ものに感情移入するアニミズム的な心性からくる
おかしみというか、そういった雰囲気がどことなく自分には感じられます。
欧米の作家さんが同じことをすると、どちらかというと乾いたユーモア、
あるいはカフカ的な(?)不気味さに繋がっていきそうです。
このあたりのおかしみはアジアの作家さんの特徴なのでは、などと感じました。

イム・ミヌク(韓国)の「国際呼び出し周波数」は、
社会運動などで使用できるメロディを作曲し、そのスコアを会場で配布、
そしてこの音楽を演奏している映像で会場で上映するという作品でした。
一昔前にマルチチュードなどという言葉がはやりましたが、なんとなく
そういう世界的な運動を音楽で実行しようというようなイメージの作品です。
しかしこの音楽は全く闘争的ではなく、非常にシンプルで柔らかいメロディ、
ある種の叙情性を感じさせる、優しいメロディになっているのが
特徴的だと思います。
この叙情性は上の「The Over View Rsort」にも通じるところがあり、
このような作品も欧米系の現代美術では、自分はあまり見たことがありません。
自己を強烈に主張し運動するのではなく、緩やかに他者とつながりながら
運動を継続するという考え方も、ひょっとしたらアジア的なのでは、
などと考えながら鑑賞しました。


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この他にも、ブルース・クェック(シンガポール)、ヴォー・アン・カーン(ベトナム),
アン・ミー・レー(アメリカ)、加藤翼(日本)など、
面白い作品は他にもたくさんありますが、この辺で。

国立国際美術館では、現在ヴォルフガング・ティルマンスの写真展も
同時に開催されていますが、この「他人の時間」の鑑賞ボリュームが
あまりにも大きく、とてもティルマンスまで手が回りませんでした。
ティルマンスもどうせ大ボリュームだと思いますので(笑)、
また日を改めて訪れたいと思います。

ということでこの「他人の時間」、最前線のアジア美術を楽しむことのできる
非常に素晴らしい企画だと思いますので、
現代美術ファンはぜひ国立国際美術館に足を運んで頂きたいと思います。