クラシック音楽・裏道の散歩(23


フランス滞在旅行記

オランダの新聞Zuiderluchtより


御喜美江のアコーディオン

<シ・ル・ヴ・プレ>

Sil vous plaitを聴いて



私は音楽のlistener(聴き手)でありcritical writer(批評家)ではありません。ですから音楽も気持ちよく聴ければそれで終わりということですが、御喜美江さんのこの演奏を聴いて、この素晴らしさを現在そしてこれからもいるかもしれない同じ価値観の人にも知っていただき、感動を共有したいという想いから感想を述べることにしました。音楽は音楽であってその感動を文章で綴るなどということは所詮不可能なことだとは分かっていますが・・・。



ところで<シ・ル・ヴ・プレ>S’il vous praitというフランス語は直訳すれば「もしこれがあなたの気に入れば」と云う意味ですが会話では気軽に「どうぞ」と云う時に使います。英語で云えばIf you pleasepleaseと殆ど同じです。



御喜美江さんから「S’il vous plait」と差し出された音楽を「Oui,merci」などと、いとも気軽に頂いてしまった私ですが、CDで演奏が始まるとすぐに何かをしながら聴くという気持ちにならず、居ずまいを正して聴き入り、終局でオギンスキー17歳のポロネーズ「祖国への別れ」のあまりに美しい演奏に涙し、ショスタコーヴィッチの「別れのワルツ」の最後の一音が終わるまで聴くことになってしまいました。それからは毎日欠かさず聴いています。



時空を超えて御喜美江さんと共にあった曲ということでしたが、私が初めて聞く曲が半分近くもありました。多分欧州で演奏されて日本ではあまり演奏されない曲があったのかと思いますが、知っていた曲も含めてすべてが想像を超えたすごい演奏でした。山深い渓流が驚くほど透明に澄んで、時にせせらぎの上に陽光を映し出し、時に激流となり滝壺に流れ込む。そして美しく清らかな流れに戻る。息をのむような演奏の迫力、胸のすくような超絶技巧。フォルティッシモからピアニッシモまで妥協のない音創り。そしてあふれ出る情熱をストイックな知性で抑制した見事な演奏でした。レコーディングという意味では聴き手の心情に配慮した懇切な曲の配列だったと思います。



そして何と云っても私は御喜美江さんの「音楽創り」の素晴らしさにブラボーです。長い歴史の中で沢山の名曲を持っているヴァイオリンやピアノに比べて様々なジャンルの中から自分の楽器の本質を輝かしく実現するための御喜美江さんの努力は作曲者の音符通りに演奏していれば何とかなる演奏家に比べてどれほど大変なものか、しかしそれを逆手にとって積極的に曲に挑戦してしっかりした構成のみごとな作品に仕上げている並はずれた才能と努力とがはっきりと分かります。



私は演奏家が作曲家の意図を忠実に守らなければならないということはないと考えています。時代が違い、楽器も変わり、演奏会場の変化や録音録画の技術も進化していますので、曲の本質を取り込んだ上で新しい曲創りをするのが演奏家の仕事だと思います。再生芸術は「創造である」と思います。演奏は再生ではなく創造です。御喜美江さんの演奏は明らかにそれを証明しています。



その意味で再生芸術という言葉は私としてはあまり好きではありませんし最近ではイーヴォ・ポゴレリチのような極端な演奏に使われる言葉のようですが、元来はどんな演奏活動でもそれは新しい創造の世界であるという意味に解釈していました。ポゴレリチよりはずっと以前にグレン・グールドのバッハやモーツアルトの演奏が印象に残っています。グールドの場合は作曲家から離れると云うよりも、指使いによる音質の変化、演奏速度、強弱の変化によってより深く作曲の本質に迫っていったような気がします。



御喜美江さんの演奏をこうした議論の延長線上で論じるつもりは毛頭ありませんが、作曲家の心情やその曲の本質とのかかわりと云う角度から見ると、例えばポゴレリチが「演繹的」に作曲家の中心から離れて行くのに対して御喜美江さんの編曲と演奏は多分作曲家が想像できなかった領域からその曲の核心に向かって「帰納的」に力強く突き進んで行きます。演奏自体も含めて見事な音楽創りという以外にありません。



御喜美江さんの演奏を聴いている時に、一瞬どんな楽器を演奏しているのか全く頭から消えて、「音楽そのもの」だけが聴こえて来るという究極の体験をしました。これは御喜美江さんの演奏が楽器の次元を超えた演奏だったといことです。そのことによって私の音楽人生の中で幾つかの疑問が晴れたような気がしました。


哲学者であり医師であり、アフリカの医療に生涯を捧げ「密林の聖者」とまで呼ばれたアルベルト・シュヴァイツァー博士。彼はまたバッハの研究でも知られ、オルガニストとしても超一流でした。博士がアフリカに立つ時に「私はバッハのヴァイオリンとチェロの無伴奏曲12曲の音符だけを携えて行く」と話したと伝えられています。つまり音符を見ながら自らの頭の中で演奏するということなのです。その時私は聴き手というものにこれほどの高さがあるかと驚き衝撃を受けました。この伝説的な話を聞いてから私にはいろいろな演奏家によるバッハの12曲を繰り返し聴いた時代がありました。しかし最後までどうしても分からないことがあったのです。それは一体博士は頭の中でどんな楽器でどんなこれらの曲を演奏をしていたのかと云うことです。もし原曲の通りのヴァイオリンやチェロならそれは誰の演奏なのでしょうか?



それから随分歳月が経ってロストロポーヴィッチがバッハの無伴奏チェロ組曲6曲を録音した時に曲の解説をした盤を一緒に収録してありました。それを見るとチェロではなくピアノを弾きながらの解説でした。彼はピアニストとしても立派な腕を持っていて世界的なオペラ歌手のガリーナ夫人の独唱の伴奏をしていたくらいですから当然かも知れません。その時に私の脳裏に浮かんだのはシュヴァイツァー博士が頭の中で鳴らしていたバッハの無伴奏曲はやはり博士の一番得意な楽器であるオルガンではないかということでした。



しかし今回御喜美江さんの演奏を聴いて一瞬楽器を離れて音楽が鳴り響く経験をして、その考えは間違っていたのだと悟りました。シュヴァイツァー博士には楽器など必要なかったのです。頭の中で演奏したバッハはシュヴァイツァー博士が創りだした「楽器を超越した音楽」だったのではないでしょうか。ですから多分「シャコンヌの最初の4重和音を現代のヴァイオリンでどう弾くのか」などという課題は博士にとって全く意味を持たなかったと云えるでしょう。いずれにしてもこのくだりを脳学者などに解説して欲しくないというのが私の心情です。



実は「音楽そのものが聴こえて来る演奏」はもう一つのテーマにも繋がりました。小林秀雄の例のつぶやきです。「突然感動は来た。もはや音楽はレコードからやって来るのではなかった。海の方から、山の方からやって来た。そして其処に音楽史的時間と何の関係もない聴覚的宇宙が実存するのをまざまざと見る様に感じ、同時に凡そ音楽美学というものの観念上の限界が突破された様に感じられた。」<ゴッホの手紙>に書かれた文章の一部です。



小林秀雄が「モオツアルト」を書く5年前に伊豆の友人の家でモーツアルトの弦楽5重奏曲(ニ長調)K593のレコードを聴いていた時の経験です。私はそのようなことが本当に起こるのかと疑問に思ってこの曲で何回か疑似体験を試みましたが、そのような経験には至りませんでした。勿論それは音楽の側だけにあるのではなく、聴く人のレベルや環境が問題なのですが、今回のような「楽器を超えた演奏」を体験してみると何かそのようなもの、つまり小林秀雄が体験したようなものが存在するのではないかという考えに至っています。そもそも私が小林秀雄のこの文章を本当に理解しているかどうかという問題も存在してはおりますが。


ところで作曲家の想定した楽器以外の楽器で演奏することは私の考えでは当然のことです。このことで作曲家が考えなかった領域の音楽が創りだされます。そうしたすばらしい例を沢山思い出します。アルベニスのピアノ曲などはギターで弾いた方がよほど情感が出しやすいように思えます。若しかして彼は作曲の時にギターを使っていたのでは?と疑いたくなるほどです。クロマチックハーモニカの名手ラリー・アドラーLarry Adlerの「ホラ・スタッカート」や「サマータイム」を聴いたことがありますか?ホラ・スタッカートではハイフェッツの神話が私の頭の中で崩れてしまいました。ガーシュインはアドラーのためにサマータイムを作曲したの?と云いたくなります。勿論演奏は技術だけではないので私としてはここで全般の感想は述べるつもりはありません。



アンドレ・セゴヴィアAndres Segoviaのバッハは定評があります。セゴヴィアの演奏は私も一時は傾倒していましたが、非常に癖のある表現に思えて来て最近ではあまり聴きません。セゴヴィアの評価はギター曲の領域から離れてクラシックの中核に挑んでクラシック・ギターを普遍的なクラシック音楽の中に蘇らせたという点です。ヨーヨーマYo-YoMaがデヴューした時にヴァイオリンの難曲パガニーニの「カプリース」をいとも簡単に弾いているのを聴いてその技巧にびっくりしたことがありました。今やヨーヨーマの場合はバッハの無伴奏組曲より現代的なピアソラやモリコーネの方に関心が強いなのではないかと思えますが・・。



ペーター・シュライヤーが歌うシューベルトの「美しき水車小屋の娘」。コンラート・ラゴスニックのギター伴奏は素晴らしかったと思います。そのあと同じシュライヤーとアンドラーシュ・シフのピアノ伴奏で聴きました。これも素晴らしいのですが、前者の方が歌詞の内容にぴったりして私には訴えるものが多かったと思います。サラ・ブライトマンの歌は大好きです。しかし彼女の歌声によるショパンの「別れの曲」やロドリゴの「アランフェス」などへの挑戦は残念ながらあまり成功しなかったように思えます。それは彼女の声や歌い方の問題ではなく編曲や伴奏に彼女らしさへの工夫つまり独創的な音楽創りがなく、あまりにも安直で単調に流れてしまったからではないでしょうか。



作曲者の意図せざる楽器での演奏はまだまだ他にあると思います。同じ作曲家の同じ音楽であっても、それぞれの演奏家の才能や努力によって演奏されている瞬間に新しい音楽としてこの世の中に生まれて来るのです。そこに演奏による音楽の創造があり、ここにまさしく芸術があるのだと思います。



御喜美江さん。文字通り渾身の感動的なアコーデオン演奏を聴かせて頂き本当に有難うございました。



御喜美江のアコーディオン CD

S’il vous plait>に含まれる曲

かっこう         L-C.ダカン

リゴドン第1と第2     J-Pラモー

ソナタハ単調        スカルラッティ

調子のよい鍛冶屋変奏曲  ヘンデル

セレナーデ         W.ヤコビ

楽興の時第3番ヘ短調   シューベルト

楽興の時第5番ヘ短調   シューベルト

一輪のばらは咲きて   ブラームス

年老いた乞食       J・イベール

小さい白いろば     J・イベール

タンゴ         ストラヴィンスキー

モダン・ラブ・ワルツ  P・グラス

ミス・カーティング A・アスティエ&A・ロック

ノヴェルティ・ポルカA・アスティエ&J・ロッシ

シェルブールの雨傘    M・ルグラン

S.V.P. ピアソラ

バチンの少年      ピアソラ

チャオ・パリ      ピアソラ

白い自転車       ピアソラ

指先もどかし EZ・コンフリー

21 ロードランナー     J・ゾーン

22 祖国への別れ      オギンスキー

23 別れのワルツ      ショスタコヴィチ

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御喜美江

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