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<宇宙に外側はあるか>

Theme: 気になる本・気になる記事 2012-05-14 10:47:39

気になる本・気になる記事(37

<宇宙に外側はあるか>松原隆彦



これほど難しいことをこれほど易しく書くことができるのか?というのが筆者のまず第一の感想です。このような人が居てくれるお陰でわれわれのような勉強をしてこなかったものにも宇宙の彼方のついての好奇心を満たしてくれて、その不思議な実態をまざまざと描き出して見せてくれるのだと感謝します。おそらくこれを読んだ世の高校生の中には将来優れた物理学者になる人がいるに違いありません。



第二の感想はわずか¥819でこれほどの広く深い内容を教えてもらっていいの?ということです。テレビを見ていない人には分からないかも知れませんが(いや、始めから分かっているからテレビなんか見ないのかもしれませんが)莫大な政策費と視聴者の膨大な無駄な時間を費やして、これ以下は無いと思われる馬鹿馬鹿しい、世のためにならない、下劣な番組やCMを作っているマス媒体があることを考えるとこの本はその対極にあって信じられないほど良心的です。



何が書いてあるかと云えば、現代の天文学と物理学のすべてです。すべてと云うと語弊がありますので、すべての項目と云い直した方がよいかもしれません。現代物理学がどのような課題に取り組んでいるか。どこまで分かってどの辺りは分からないのか。それぞれの研究分野ごとに丁寧に教えてくれます。さらに分からないテーマの仮説やその名称を明らかにしてくれます。今や新聞記事にもなる暗黒物質やダークエネルギーについても勿論触れています。



そして素人の一番知りたいことやSFが取り上げているワームホール、ワープ、タイム・マシン、そして並行宇宙などの天文学と物理学上の説明はすばらしいと思います。どんな最高性能の望遠鏡でも宇宙の始まりであるビッグバンから38億年後に至るまでの宇宙の状態は観測することができません。それは何故かといった問題から始まって、宇宙の過去、現在、未来の姿を追求する学者達の想像を絶する叡智や思考、そして宇宙のすべての現象を説明できるはずの「統一理論」に向かう研究に迫ります。



「宇宙に外側はあるか」というこの本の題名にアプローチする場面では「マルチバース」という概念に行き当たります。宇宙と云う言葉は「ユニバース」です。「ユニ」はたった一つのという意味ですが「マルチ」は沢山のという意味です。つまり宇宙は一つではないという考えです。タイムマシンによって過去に到着した人がその祖先になる人を殺してしまったらその人は生まれていないはず。生まれてこないはずの人がどうして祖先を殺せるの?といった「タイム・パラドックス」も「もう一つ宇宙があるんだよ」というマルチーバースの理論で解決します。人が何か決断するごとにその決断をしなかった宇宙も生まれて来る。だから恐ろしい数の自分に見えない宇宙が存在する。マルチバース(多宇宙)、パラレルワールド(並行宇宙)、ストリング理論(弦理論)M理論など最先端を行く仮説の説明を克明にしてくれます。



しかし今、生まれてから馴染んできた自然界の中で生きる自分の感性は、このような理論の世界をなかなか受け付けるところまでいきません。多宇宙の考え方は私に、かすかなめまいと嘔吐感を催させます。人間には自分が生きる確固とした大地が必要なのでしょう。それが錯覚であったとしても・・・。結局人間は自らの実体験を超える経験には耐えられないのでしょうか。



「宇宙に外側はあるか」松原隆彦

 光文社新書 2012220日初版

 ¥819










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人類15万年・パンの発明

Theme: フランス滞在旅行記アーカイヴ 2012-05-08 15:31:58


ムッシュウ・シエルの自選アーカイヴ



<パンのお話>

人類15万年・パンの発明


ポンペイのパン窯
イタリアのポンペイ遺跡に旅行した時、ベスビオ火山の噴火に埋もれた当時の(西暦79年)の生活がそのまま残っているのに本当に驚きました。悲劇の残影を別にすれば、一番興味をそそったのは当時のパン屋さんのパン窯がそのまま残っていたことです。「あ、全く今と変わらないではないか」という感慨です。

しかし考えて見れば、長い現生人類の歴史から見ればポンペイの2000年前はつい最近のことなのです。人類におけるパンの起源は諸説によれば少なくとも6000年前のことです。筆者の考えでは本当はもっとずっと以前だと思います。学者としては証拠が欲しいところでしょうが、筆者のような門外漢は想像力だけで勝手に判断が出来るのがファンタスティックなところです。


フランス滞在旅行記
 現存する2000年前のポンペイのパン窯

人類15万年・パンの発明
現生人類つまり私達は15万年以上前のアフリカ大地溝帯で生まれました。そして85,000年前にアフリカを出てアラビヤ半島の南端からインドにかけて到達したのです。そこから欧州を目指す人達やアジアに向かう人達に分かれて行ったのです。45万年前の話です。黒人も白人も黄色人種もすべては10万年前はアフリカで同じ顔の色をして一緒に暮らしていたのです。


そして10万年前の人類も、現代の人も個人の能力は全く変わりません。その間生物学的な進化はなく、脳ミソの大きさも同じだし考えることも感じることも全く変わらないのです。私達の文明の進化は科学技術の累積以外にはないのです。


パンの起源を求めるなら、遺跡や化石などの証拠だけではなく、人文的思考と想像力が必要と思う筆者の原点はそこにあります。つまり何万年前の人間も個人として今の人類と同じ能力なら1万年はおろかもっとずっと前からパンを作っていたのではないか。人類は化石や遺跡などに何も痕跡を残さないいろいろな偉業を考古学者の目を避けて実現していたのではないか?という疑問が絶えず付きまとうのです。


パンはいつ発明?
考古学上は1万年前にメソポタミア(現イラク・クエート・シリア)を中心にした肥沃な三日月地帯で小麦の栽培が始まったと云われています。従ってパンの発明はその後という理屈になります。そのあたりの進化のプロセスを追って見ると・・・

 野生の麦類を発見して食用にする(粒のまま食べる?

(?年前)

 麦の粒をすりつぶし粥にする(今のオートミール状?)

(?年前)

 麦の栽培を始める(粥状態で食べることは変わらず)

10000年前)

 原始的なパンの発明(種なしパン)

8000年前)

 窯を使わない天然酵母の石焼きのパンに進化

5500年前)

 窯を使った天然酵母のパンの発明

5000年前?)


粥からパンへの進化は大変な第1の革命です。ある日焼けた石の上で粥が焦げ付いてしまいました。それが驚くほど美味しかったのです。

種なしパンから天然酵母の発酵パンへの進化は第2の革命でした。ある日忘れて放っておいた種なしパンを焼いたところ天然酵母で発酵した美味しいパンが出来上がり、今日にいたるパンの道が開けたのです。

パンを焼くために窯を使ったのは意外に早かったのではないか私は思います。なぜならイラクのジャルモの後期遺跡からはパンの窯が発掘されているからです。ジャルモの遺跡の一番古いものは9000年も遡ります。


● 肥沃三日月地帯=現在のイラク、シリア、レバノン、イスラエル、パレスチナ、エジプト、東南トルコ、西北ヨルダン、南西イランなど。古代オリエント史の中で語られる三日月型の地域全域を指す

パンとビールは兄妹?
兄と妹???それはまたどうして?
フランス語でパンは男名詞、ビールは女名詞だからです。誰がそんなことを決めるんだ?ついでだからお話しましょう。1635年、3銃士やダルタニアンが活躍したルイ13世の時代に正しい言葉使いを監視するために宰相リシュリューが創設した国家機関「アカデミー・フランセーズ」が決めます。委員はいろいろな職種から知性を誇る人40人で構成。任期は終身制とか。外来語などもこの審査に掛けて辞書にのせるかどうかなどを決めるのです。

どうしてビールは女なの?と聞かれても分かりません。一応はルールがあるようですが一般にはあまりはっきりしません。どなたか時間をかけて取材されたら如何でしょう。

ビールとパンのどちらが先に生まれたのか?それは筆者にも分かりません。もしかすると姉と弟ということかも知れません。いずれにしても親は同じです。親から貰った兄妹の共通点は「麦」「発酵」「炭酸ガス」です。麦を発酵させて出来た炭酸ガスがパンを膨らませビールを発泡酒にしたのです。

ずっと古代に麦はお粥にして食べていたことが分かっています。これがパンとビールの親です。発酵パンはお粥が乾いてから出来たもので、ビールはお粥が偶然酵母の働きで直接ビールになったと思われます。種なしパンははっきりビールより兄貴ですが、発酵パンは若しかするとビールの弟かも知れません。


種なしパンの歴史は云われているよりずっと古いのではないかと筆者は考えています。つまり野生の麦を発見した時からではないかとさえ思えるのです。たった1万年前とは思えません。2万年前?3万年?5万年?それは分かりません。麦を丸ごと食べれば消化が悪いに決まっていますから何らかの手段でつぶして、若しかすれば粉にして団子状態を作った可能性は十分あり得ると思います。


現生人類は十五万年前から今に至るまで生物学的に個人の能力は全く変わらないのですから・・・。今までの長い年月にどんなことが発見されても、どんなことを発明しても不思議なことは一つもないと云うことです。





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パンで明けるパリの朝

Theme: フランス滞在旅行記アーカイヴ 2012-05-01 09:18:39

ムッシュウ・シエルの自選アーカイヴ



<パンのお話>

パンで明けるパリの朝

パリの朝はパンと共に明けます。市内のおとぎ話のような美しいプチ・ホテルに泊まって、おおらかなマダムのサービスで、縦に大きく切ったバゲットにミエル(蜂蜜)をたっぷり塗って目が覚めるような濃い目のフレンチ・カフェと共にほおばる。「あ、ここはやっぱりフランスだ」と実感するひとときです。


パリのパン屋さんは朝が早い。朝6時に近所のパン屋さんの店先に立つとパンが焼きあがった香ばしい匂いが店の中から馥郁と流れ出してきます。アパルト・ホテルに泊まった私達の日課は毎朝、近所のフランス人の老若男女の列に混じってバゲットを買いにパン屋さんに通うことです。その楽しさと美味しさがその日一日の活動の力になるのです。


バゲットとミエル
もちろん、ランチにもディナーにもパンは食べます。しかしフランスの「朝のパン」は独特に存在感があります。他に何もないからということもあるかも知れません。フランスの朝ごはんはコンチネンタル風の中核にあるのでしょう。私達が普段ホテルで食べる朝ごはんは英国式です。コンチネンタルつまりヨーロッパ大陸の朝食は実に簡素なもので、パンとコーヒーだけです。バターは付けません。でも朝のパンの存在感はそれだけではないような気がします。パンはそれ自体フランス文化の主役になるような大きな存在なのです。

フランスの家庭などで見ていると、結構バゲットに甘いものを付けて食べています。例によって輪切りではなく縦に切ったバゲットです。甘い食べ物の主体はミエル(蜂蜜)とかコンフィチュール(ジャム)といったものです。ハムエッグなどの話をすると「エッ?朝しょっぱいものを食べるの?」としかめっ面をするのです。(笑)


バゲット半分

朝のパンの心豊かな雰囲気は何もパリに限ったことではありません。フランス中どこへ行っても同じです。ランスへ行っても、ニースへ行っても、モンサンミッシェルへ行ってもパン屋さんを取り巻く雰囲気はどこも同じです。バゲットが一人で食べきれないと思ったら「ドゥミ・バゲット、スィルヴプレ(バゲット半分下さい)」と云えば若い女の店員さんがちゃんと半分に切ってくれます。ただし日本のように袋になどは入れません。手の巾しかない小さい白い紙をくるっと巻いて手渡してくれます。


よく街角で少年が小さい紙にくるんだバゲットを遊び半分に持っているうちに道路に転がしてしまっているのなどを見かけます。道路は犬がたくさん散歩しているのであまり清潔とはいえませんので、家でお使いを命じた母親にどのような報告をしているか少々心配です。


スーパーマーケットではまだレジに行かないうちに籠の中のパンをかじっている人もいます。だいたいが若い男ですが・・・。レジであまり待たせるので結局全部食べてしまいました。「あの~僕バゲット1本たべてしまったんですけど・・。」と正直は正直。レジのオバサンは肩をすくめてちゃんとお金を払わせています。この光景あまり珍しくないのかもしれません。


丸いパンと長いパン

ポワラーヌでは丸いカンパーニュ(田舎のパン)を買いましたが、普通パン屋さんで買うのはなんと云ってバゲットがほとんどですが、もう一つ好きなものに「コンプレ(丸ごと・全粒)」があります。これは玄米ならぬ玄麦を臼で挽いてパンに仕立てたものです。むっちりと重く、噛みごたえのあるパンで如何にも健康に良さそうなのです。


ある日近所のパン屋さんに行って「丸いコンプレ1個下さい」と若い女の店員さんに頼みました。すると彼女は細長いコンプレを持ってきて「はい」と渡してくれました。「違いますよ。丸いのって頼んだんだけど。」すると彼女はけげんな顔で「だから長いのを持って来たんですけど・・・」あれ!なんか変だなと気が付きました。


筆者の発音が間違っていたのです。「丸い」はフランス語で「rond」です。また「長い」は「long」です。どっちも日本語で書けば「ロン」ですが、実際は全く違う発音です。「rond」はほとんど「コン」と聞こえるような発音ですが日本人には苦手な発音なのです。以前にフランス語の女の先生に「日本人とスペイン人はどうしてRの発音が出来ないんでしょうね!」と云われたことがあります。「ははん・・・スペイン人もR発音が下手なんだ」と妙に安心したりしたことを思い出しましたが、こんなところで痛い目に遭うとは思ってもいませんでした。すぐに「コンプレ・コン」と云い直すと「あ!分かったわ」と丸いパンを持ってきてくれました。

ご飯の文化とパンの文化
気象や地質がいかに食べ物に影響を与えるか・・・世界を2分する「小麦文化」と「米文化」は非常に分かりやすい例でしょう。地球の東と西を分けたこの文化の差は同じイネ科の「麦」と「米」の生育環境の差です。低温乾燥の麦と高温多湿の米の産地の差、その食文化の差が現代もまだ続いているのです。輸送手段がこれだけ発達した現代ですらこのようですから、輸送手段がない時代では「地のもの」を食べるしか方法がなかったでしょう。あとは燻製、干物、塩漬、砂糖漬などの保存加工によって長期保存や輸送に耐える方法が採られたと思います。


私は「フランスへ何故行くの?」と聞かれた場合の極端な答えは「バゲットを食べに・・・」です。そのくらいフランスのパンは好きです。パンの起源はずっとずっと昔の中近東にありますが、そこからやってきたパンはフランスに定着し、その広大な平野で何千年もかけて成熟し、昇華した「小麦文化」の結晶に違いないと思います。

年配のフランス人はそれでも「昔のパンはもっとうまかった」と云います。美味しさを損ねている原因の一つに国民の健康を気遣う政府の介入もあります。例えば「混入する塩分の量を減らせ。」といった命令です。それでもめげずに美味しいパンを作り続けている?パン屋さんもあります。

日本で美味しいパンはあきらめろ!
ある日、パリ在住の日本人数人で集まる機会がありました。サンルイ島にある日本でも有名な装飾芸術家の家に新聞記者、料理人、陶芸家など全く職種の異なったメンバーが集まって食事会をやったのです。その時の熱い話題はパンのことでした。「何故フランスのパンは美味しいか?」「何故日本でおなじ食感のパンが出来ないか?」意見が多くて数時間も話が途切れませんでした。


いいろいろな意見があったものの結論は「日本でフランスと同じパンを食べるのは諦めろ」ということでした。私を除く全員がフランス在住でしたから、その言葉は私一人に向けられたものです。いやだったらフランスに引っ越してこい!という笑いが結論でした。


小麦文化の深い歴史

フランスのパン作りコンクールで日本人職人がグランプリを取ったこともあります。にもかかわらずその人が日本でパンを作っても思うようには行かないのです。パンを作っているものはパン作りの技術だけではないということなのです。


つまり美味しさを決定づける要素はまずは原料の小麦の質、発酵菌、原料の塩の成分、焼窯の様子、大気の温度や湿度などあるゆる要素がからんでいるのです。このうち原料の小麦だけとってもその選択は実に多様です。日本でお米の選別が厳しいように小麦文化の土地での小麦の選別は日本の比ではありません。


日本のパン作りで小麦粉についてどこの産地かとか、品質はどうかなど勿論研究はしていますが、歴史の差は明らかです。一方ヨーロッパでは一般にお米の産地、種類、品質などあまり気にしていませんし、日本におけるように厳密なお米の味や食感に対する評価は存在していません。歴史的文化の差とはこのようなものなのでしょう


日本進出の有名なパンは本国と同じ味?

フランスの有名なパン屋さんが日本にも進出しています。パン好きの筆者のことですから、出来るだけ数多くのパン屋さんでバゲットを買っては試食しています。しかしどうしてもあのフランスで体験したバゲットの感動に巡り合えないのです。


「フランスのバゲットが食べたければフランスへ引っ越して来い!」と云われたサンルイ島の連中とのディスカッションの結果がこんな風に的中してしまったのはまことに残念と云うほかはありません。フランスの名高いパン屋さんもあのフランスのパン作りコンクールで優勝した日本の青年と同じ落とし穴にはまってしまったのでしょうか。


日本の細菌が犯人?

フランスの有名パン屋さんの日本でのパン作りは材料やレシピ、発酵工程、窯や温度の管理、製造者の技術などなどおそらくパン製造のあらゆるノーハウがフランスの本店と同一に間違いないでしょう。それでもどうしても同じものが出来ないのはどうして???


それは「環境」という以外には考えられません。環境とは何だろう?パン屋さんはそれを研究して頂きたい。そうすればきっとフランスでのものと同じ感動が得られるのではないでしょうか。それは湿度なのでしょうか。地元調達の添加物?それとも発酵に使う天然酵母の種類やその知られざる活動?あるいは日本特有の細菌の作用?それとも???


日本でも出来る美味しいパン!
実は最近になって物凄く美味しいバゲットを作っている国内の小さいパン屋さんを見つけました。まだ童顔の残るこの青年がどこでどう修業して来たか、どんな経歴か、どんな作り方をしているかまだ一切分かりません。一つだけ分かっているのは小麦をフランスから粒のまま輸入して自分で製粉していることだけです。つまり日本でも美味しいバゲットを作る可能性があると云うことです。

時間はかかるでしょうが、パンを食べる人々とパン屋さん自体に問題意識さえあれば何かの方法で日本でも必ず美味しいバゲットが作られるようになり、サンルイ島の連中の鼻をあかすことが出来る日がきっとやってくるのではないかと思っています。「早く日本へ帰ってこい!」と。



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パリの自由の女神

Theme: フランス滞在旅行記アーカイヴ 2012-04-24 08:53:07

ムッシュウ・シエルの

自選アーカイヴ(4


フランス滞在旅行記

<パリの自由の女神>


パリの自由の女神とは何かパリのリュクサンブール公園の大木の下にひっそりとたたずむ自由の女神。これは一体何だろう?ニューヨークの自由の女神があまりに有名なので、それ以外に自由の女神がどこにいても、みんなニューヨークの女神のレプリカではないかと思ってしまいます。聞いてみるとこれこそニューヨークのリバティ島で<世界に向かって輝く>自由の女神の正に原型となったのがこのリュクサンブール公園に立つ自由の女神なのです。


アメリカの独立100周年

そもそもの始まりはフランスで法律学者で政治家のエドワード・ド・ラブライエという人がアメリカの独立100周年に「自由の女神像」を贈ろうと提案したことが始まりでした。でも何故フランスが?実はその100年前のアメリカの独立戦争はイギリスの植民地からの独立だったわけで、当時イギリスとの折り合いの悪かったフランスはアメリカの独立に援助の手をさしのべていたのです。


アメリカからのお礼ですから独立100周年に当たる1876年にフランスがフランス革命の象徴である自由の女神像を贈ろうと云う提案は極めて自然だったのです。そして、それから13年後の1889年に今度はそのお礼として、パリに住むアメリカ人達が同じモデルの自由の女神をフランスに贈ろうということになったのです。その像がセーヌ川の中州の「白鳥の散歩道」の先端に立つ自由の女神です。


自由の女神<マリアンヌ>

そもそも「自由の女神」とは何でしょうか?そして誰がモデルで、誰がデザインしたのでしょうか。

自由の女神の女性は「マリアンヌ」です。「マリアンヌ」はフランス革命の時に「フランス共和国」を擬人化し自由平等博愛を表したマスコットでフランスそのものを象徴する女性像なのです。頭にはフリジア三角帽をかぶっています。フリジアというのは古代ローマ時代に自由の身となったフリジア人がかぶっていた帽子を意味します。

顔は決まっているわけではなく、その時の人気の女性がモデルとして使われることがあります。例えば20世紀後半では映画女優のブリジッド・バルドーやカトリーヌ・ドヌーヴなどがモデルになったこともあります。


自由の女神のモデル

ところでニューヨークに寄贈した自由の女神の原型のモデルは一体だれでしょうか?
この像を手掛けたのは1800年代に活躍した画家・彫刻家・建築家のフレデリク・バルトルディ(18341904)です。自由の女神のモデルは彼の母親というのが一般的な意見です。


しかし全体の構成としては1830年にすでにマリアンヌの雄姿を描いたドラクロワの「民衆を導く自由の女神」がヒントになったことは明らかです。像の制作には当時、鉄の魔術師と呼ばれたエッフェル塔の設計者であるエッフェルも内部鉄骨の設計に参画しています。



フランス滞在旅行記
   ドラクロワの民衆を導く女神


完成のための資金集め

その間には1878年のパリ万博には未完成の女神の頭部が展示され、女神の中に子供が入って遊ぶ光景も見られ、資金集めに一役買いました。


自由の女神をアメリカに贈る提案をしたラブライエの大変な努力によって資金のめどがようやくついて、パリで完成した自由の女神は1885年に200以上の部分に切り分けられてフランスの海軍輸送船イゼール号でニューヨークに運ばれ、現地で再組み立てを行いました。ところがその時点で今度はアメリカ側で設定するはずの台座が資金不足で完成していなかったのです。


そこへ救いの神として現れたのが、当時<ザ・ワールド>新聞社を経営していたジョセフ・ピューリッツアー氏(ピューリッツアー賞の創設者)でした。彼の新聞紙上でのキャンペーンが功を奏し資金を集めることが出来て、立派な台座が完成しました。


100万人の序幕式

そして18861028日に時のアメリカ大統領グロバー・クリーブランドが出席して100万人の観衆を前に除幕式が執り行われました。台座まで入れた高さ93メートル重量225トンの像は以来「自由の世界を照らす」という作者バルトルディーの願いをたいして世界に「自由、平等、博愛」を発信し続け、ニューヨーク港に到着して新天地を夢見る数多く移民の心に希望の光を与えて来たのです。

9・11の影響

しかし残念なことにこのニューヨークの自由の女神は9・11のテロ事件以来、爆破されるのではないかという心配があり、9年間入場を閉鎖されていました。幸い2009年の独立記念日(74)に充分な警備の上、人数制限をして入場が再開されました。


ニューヨークの方向を向く

さて、セーヌ川のパリの西のはずれ近く、エッフェル塔のすぐそばにビルアケムという名前の橋がかかっています。その橋の下から次のグルネル橋の間に1825年に完成した「白鳥の散歩道」と名付けられた細長い中州がセーヌ川の真ん中にあります。文字通りゆったりと木々の下を行く散歩道です。その道を西の先端まで歩くと突然「自由の女神」が現れてきます。しかしこちらから見えるのは女神の背中です。でもどうして?


それは女神が西、すなわち遠くニューヨークの「自由の女神」の方角を向いて建てられているからです。ルクサンブール公園の女神も同じようにニューヨークを向いて建てられています。この中州の女神こそパリのアメリカ人が1889年にフランスに贈った「自由の女神」なのです。原型はニューヨークの女神と同じようにルクサンブール公園にある女神です。


アメリカへ寄贈した自由の女神の完成までには幾度もの困難がありました。しかしこのストーリーの始めから終りまで・・・発想から完成まで、国家や組織が一切関与していません。すべて個人のレベルで高い理想と強い意志を持って完結しています。私にとってこれは驚くべき情景でした。


世界中に「自由の女神」は幾つあるのでしょうか?それは分かりません。小さなレプリカまで入れればおそらく相当な数でしょう。設計者のバルトルディーの故郷フランス東部のアルザス地方のコルマールにもあるし、東京はお台場、そして青森おいらせ町にも立っています。それぞれ建立の経緯がありました。いつの世も自由と平等と博愛は世界のどこにいる人間にとっても永遠の理想として心の支えになっているのでしょうか。


フランス滞在旅行記
ルクサンブール公園

に立つ女神の原型


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パリ/ エッフェル塔

Theme: フランス滞在旅行記アーカイヴ 2012-04-21 07:50:18

ムッシュウ・シエルの

自選アーカイヴ(3



パリ/ エッフェル塔

La tour Eiffel

フランス滞在旅行記
         1889年パリ万博絵葉書


1889年、フランス政府は革命100周年の万国博のシンボルである大きな塔のデザインを公募しました。このコンペティションに応募し、107にのぼる応募から選抜された2つの案の中の一つがエッフェル社の社長のエッフェル、そしてステファン・ソーヴェストルとモーリス・ケクランという技術社員の作品でした。この案は3人の合作としてエッフェルがその代表となったのです。
選抜されたもう一つの案は建築家ジュール・ブルデの案「太陽の塔」(形は全く異なるが70年の大阪万博の岡本太郎の作品と同名)で、今でもオルセー美術館に展示されています。


エッフェル塔が最終的に採用された理由は鉄製、一方ブルデの案は石造りという点にあったと云われます。鉄こそ現代技術の象徴と考えられたからです。ただし、エッフェル塔反対者の理由の一つは「石造りの街パリ」に鉄はそぐわないという点にあったのですから物事は難しいものです。

エッフェル塔を建てたグルタフ・エッフェルは芸術家ではありませんでした。今で云えば中小鉄工会社の社長兼鉄鋼技師で、駅舎、高架橋、丸天井など鉄骨の建造物を手掛ける会社を経営していました。しかしその技術は非常に評価され,鉄の魔術師とも呼ばれ欧州のほかアジアなど国外からもたくさんの仕事が舞い込んでいました。


現にエッフェル塔の緻密な設計とその美観は100年以上たった現代にいたっても少しも衰えを見せません。万博に間に合わせるために建設スピードは超特急でわずか、22ヶ月という速さで完成しました。工事に安全を期して一人の死者も出さなかったのがエッフェルの自慢でした。


この塔を実現したエッフェルの像は塔のすぐ脇に立っています。エジソンと語るエッフェルの蝋人形は実物かとみまがうほどリアルな姿で第3レベルの室内に配置されています。


フランス滞在旅行記
塔の3階/蝋人形のエッフェル


エッフェル塔は万博のシンボルですから当初は20年後に撤去することが前提でした。しかも建設が始まると,そのいかつい姿は美しいパリの風景には到底似合わないという意見が多くなり、はなはだ評判の悪いものになりました。中でも当時の人気作家モーパッサンやアレキサンドル・デュマなどはその急先鋒でした。完成した後モーパッサンはエッフェル塔の第2レベルにあるレストラン<ジュール・ヴェルヌ>に足しげく通っていました。わけを聞くと彼は「エッフェル塔を見なくて済む場所はパリではここしかないからね。」と云っていたそうです。

しかし塔が完成して万博が始まると、凄い人気が出てきて「エッフェル塔に登ろう」という合言葉に乗せられて200万にもの来場者が押し寄せました。万博が終わってしばらくは人気も衰え一度は早々と撤去すべしといった意見も出されました。見慣れて来ると云うのは恐ろしいもので、エッフェル塔が嫌いだと云う人は時間とともに次第に少なくなっていきました。逆にこの塔を撤去するのは淋しいと云った気持ちも出てきて撤去の期限が近づくに従って残したいという意見が強くなっていったのです。


しかし約束の20年経った1909年にはパリの市議会は撤去をいったん決議しました。一方、そのころ電信の発達によってエッフェル塔を活用してアメリカ大陸と交信する実験が成功しました。美観の話ばかりが先行していましたが、実用の面から存続する必要性が出てきたのです。そこで撤去の決まったエッフェル塔は再び息を吹き返し、1916年に正式に存続が決議されたのです。


そんなエッフェル塔にさらに災難がふりかかります。それはは第2次大戦です。ドイツナチスがパリの破壊を計画した時、エッフェル塔の足には大量の爆薬が設置されたこともあったのです。結局ドイツ軍の敗退によって事なきを得たと云うことです。


人気の消長という意味では芸術家達のエッフェル塔への関心の持ち方も大変興味がつきません。
当時の流行画家は印象派でしたが、印象派の画家でエッフェル塔をまともに取り上げたのはジョルジュ・スーラだけでした。他の印象派の画家はパリの風景からわざわざエッフェル塔を外して描いたようです。

フランス滞在旅行記

アンリ・リヴィエールの木版画



20099月に葉山の近代美術館で見ましたが、日本の浮世絵に影響を受けたアンリ・リヴィエール(1864-1951)が描いた雪の日のエッフェル塔の木版画などがあります。


とにかく、パリのシンボルとなってしまった今となっては、私達にはエッフェル塔のないパリなどはまったく想像することができません。今では建築技術が進み、世界中に高い塔が乱立しています。その中でエッフェル塔は25位となっていますが、建設当時エッフェル塔の300(現在324)メートルは世界一だったのです。


日本では新東京タワー(スカイツリー)が完成し、634メートル(独立電波塔としては世界一)ですが、世界の高層建築競争はアラブ産油国が中心で一段と激しいものになっています。


現在は建造物として世界一はドバイのブルジュ・ハリファの828メートルですが、サウジアラビアではすでに1600mの塔を計画しているとか、今後限りなく空にそびえる建築が生まれてくるでしょう。


しかしエッフェル塔のユニークな姿は、百年以上の風雪に耐えて、世界中の人々から愛され、すでに高さ競争を超越して、タワーの古典としてその美しい姿をパリの空に描きだしています。





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パリのオ・ラパン・アジル

Theme: フランス滞在旅行記アーカイヴ 2012-04-18 13:39:28

ムッシュウ・シエル

自選のアーカイヴ(2



AU Lapin Agile

<オ・ラパン・アジル>

パリ・モンマルトル


オ・ラパン・アジルはカフェに分類されていることもありますが、シャンソン酒場です。ムーランルージュ(赤い風車)やリドなどのキャバレーとは全く違います。カンカン踊りもありませんし、食事も出ません。もっと料金も安く、狭く、云わば暗い掘立小屋の中で昔の歌を聴く(又は歌う?)という感じです。観光客も来るのでサービスにポピュラーな「oh、シャンゼリゼー」や「ラヴィ・アン・ローズ(バラ色の人生)」「巴里の屋根の下」などを歌ってくれます。ジュリエット・グレゴやエディット・ピアフなどの歌もありますが、歴史的に古いシャンソンになると殆どの日本人はお手上げです。結構新しい歌もあるという話ですが・・・。


歌う人は数人の男達、時に女性も混じって司祭のような男が中心になってロの字型の机のまわりに並んで片手にワイングラスを持って合唱したりソロで歌ったりします。その周りを囲んで狭い席があり隅の方に昔あのサティーが自曲を演奏していたというピアノがあり伴奏しています。総じてそれほど華やかなものはあまり期待できないと思います。



営業時間は夜の9時から夜中の2時まで。お酒1杯付で24ユーロくらいです。お酒も飲み終わったしシャンソンもよく分からないからあまり面白くないしそろそろ帰ろうかなどと考えていると、気配を察してか、歌っていたオジサンが「ここはこれからなんだよ。ゆっくりして行けよ。」なんて云ってくれます。仕方がないのでもう少しと思って11時頃に「じゃ帰ろうか」なんて掛け声をかけると「何だもう帰るのか?随分早いじゃないか。こんなにいい酒場はパリのどこにもないぞ」などと暖かい声?をかけてくれます。



12時を回る頃に男女のかけあい漫才がはじまりいよいよ賑やかに夜のパリの佳境をたっぷり味わうことになります。観光客よりはパリの地元の人が多いような気がします。やはり言葉の微妙なニュアンスや歴史文化が分からないとここで充分に満喫することは難しいと思います。



オ・ラパン・アジルがあるモンマルトルはモン(山)という名前が付いたパリの2つの山の一つです。もう一つの山はモンパルナスです。モンマルトルの<マルトル>はフランス語で動物のテンのことですからテンが沢山いた山ということだと思っていたら大違いで、Mont des Martyrs(殉教者の山)という意味だそうです。この山で3世紀にキリスト教の初代司教サン・ドニが殉教し、切られた自分の首をもって歩きついに倒れたパリの北の郊外に教会が建てられました。そのサン・ドニ教会にはフランス歴代の王の殆どが埋葬されています。



モンパルナスの<パルナス>はギリシャ神話の日の神様アポロンが住んでいたところ。17世紀頃学生が名づけたと云われますが、若しかするとローマ人が支配していたころここにアポロンを祀っていたのかもしれません。モンパルナスの山は例のナポレオン3世のパリ大改革の際に削られて今は平地になって名前だけが「山」として残っており替わりにモンパルナス・タワーがそびえています。モンマルトル、モンパルナス2つの山がセーヌ川を挟んで右岸と左岸にパリの<梁山泊>となって大勢の音楽家や文人や芸術家を集めて張り合ったということはパリがまさに芸術の街である証左でしょう。



オ・ラパン・アジルのすぐそばにパリ市内で唯一のぶどう畑があり、毎年10月の第2週にその年のぶどうの収穫を祝って盛大なお祭りがおこなわれます。へえ!パリにもぶどう畑があるの???モンマルトルのぶどう畑の文献が出て来るのは10世紀に遡ります。12世紀にフランス王妃のアデライドがモンマルトルの麓に女子修道院を建ててからモンマルトルのぶどう畑とワインますます発展します。この女子修道院はフランス革命の最中に最後の修道院長マダム・モンモレンシーがギロチンにかけられ修道院は取り壊されてしまいました。



女子修道院の痕跡は地下鉄の駅名にのこっています。モンマルトルに一番近く、大きなエレベーターに乗らないと地上に出られないアベスAbbesses(女子修道院長)駅です。歴史的に修道院が提供するぶどう搾り機でワインが造られていました。ここでワインが造られていたことがこの界隈に飲み屋が多くなった原因であり、それがやがて呑み助の芸術家達を大いに惹きつけたわけですから面白いものです。



19世紀あたりまでは土地の3分の2がぶどう畑で風車が沢山あったそうです。現在は当時を偲ばせる2つの風車のほか麓のキャバレー、例のロートレックで有名なカンカン踊りのムーラン・ルージュ(赤い風車)があります。当時風車を何に使ったか地元の人に聞いたら小麦を挽いていたに決まっていると云っていましたが、私は一部ぶどう搾りにも使っていたのではないかと想像しています。



サクレクール寺院は観光客には目立つ存在ですが、歴史は思ったほど古くはありません。1875年にフランス政府の新体制を祝って造り始め、1914年に完成したものです。モンマルトルには歴史的、宗教的にもう少し重要な教会があります。日本にも来たフランシコ・ザビエルの記念すべき場所です。1534年パリ大学で運命の出会いをしたイグナチオ・ロヨラとフランシスコ・ザビエルが他の同志とこの地の地下聖堂でカトリックの改革と布教を目指してイエズズ会を結成した場所です。その地味な聖堂が現存しているのです。平日は閉まっていますし普通の建物の中にあるので一般の観光客には殆ど無縁といってよいでしょう。



オ・ラパン・アジルにどんな芸術家が来ていたかと問われれば、日本人が知っている近代のフランス芸術家のほとんどすべてと云ってよいでしょう。モデルでもあり画家でもあったシュザンヌ・ヴァラドンと彼女の一人息子のユトリロが生涯この地で暮らしていたことは有名ですが、ピカソ、モジリアニ、など安アパートの「洗濯船」の住人、マチス、ルノアール、アポリネール、コクトー、サティーなど後から見れば凄いメンバーがそろっています。



オ・ラパン・アジルとは一体何かということですが、この店が出来る前には「泥棒の集会所」とか「殺し屋の店」とかいう名前のキャバレーでしたが、1880年ラパン・アジルが買い取りました。店名は戯画のアンドレ・ジルが鍋から飛びだしている絵の看板(今の看板は後の複製)を描いたことがきっかけで<A・ジルのウサギ>ということだったのですが、誰が云い始めたかもじって<元気なウサギちゃん>すなわちAu Lapin Agileになったという次第です。


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オ・ラパン・アジル入り口の看板





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夕映えのヴェズレーVezlay

Theme: フランス滞在旅行記アーカイヴ 2012-04-12 18:45:16

ムッシュウ・シエル自選の

<アーカイヴ>(1



夕映えのヴェズレーVezlay
<音楽の住み家>
突如その歌声は大地から霧が立ち昇るように聖堂の床から静かに湧き上がり、やがて聖マドレーヌ寺院の壮麗なロマネスクの天井の梁に柔らかく木霊した。


私達が来た時には姿の見えなかった30人ほどの白いヴェールを被った修道女達がいつの間にか寺院の一角に座り祈りとも思える静かな声で歌い始めたのである。


それは夕刻の聖霊降臨の儀式を前にした導入の詠唱であった。恐らくこの寺院の前身である9世紀のジラール・ド・ルシオン伯爵によって建てられたベネディクト女子修道院が創設された頃から続いて来た毎日の聖務であったグレゴリアン・チャントの詠唱に違いない。


その歌声はこの地にもこの宗教にも何のゆかりもない私達をキリストの愛のぬくもりで包み、幻の中世の日々へといざないつつ、一瞬、時空を超えて聖堂のすみずみに沁み渡って消えた。


西暦1146331日。恐らく1120年の大火から復興し新築間もないこのフランス中東部の聖マドレーヌ寺院の広場に12世紀の良心とまで謳われた聖ベルナール、フランス国王ルイ7世、諸侯、聖職者、そして市民など数千人が集い第2次十字軍の結成式を行い異教徒殲滅の誓いを立てた。


今、19985月初旬のヴェズレーは春とも思えない気温の低さである。ロマン・ローランの終の住み家の前を通って緩やかな石畳の坂を登って行くと冷たい空気が張り詰める。登りつめると左に修道院があり、その先に寺院の前の広場がある。その広さではとても数千人の群衆がここに集まったとは思えない。


恐らく聖堂右横にある広場とそれに連なる原野の中にも人々が集まったに違いあるまい。2002年日本からはるばるやってきた梅若六郎が「空海」を舞うために選んだその場所である。


さぞや寒かったであろうと想像される12世紀の復活祭のその日、聖ベルナールは火を吐くような熱弁をふるった。彼は十字軍結成の誓いとして自らの修道服を切り裂いて群衆に与えたと云う。十字軍の功罪の歴史的、或いは人道的評価が暗転するはるか以前の栄光が最も華やかであった頃のことである。


11世紀頃にはこのヴェズレーにキリストの崇拝者として名高いマグダラのマリアの遺骨があるという伝説が定着しマドレーヌ寺院の名称の起源となった。そしてキリストの12使徒の一人大ヤコブの分骨が祀られているとされるスペインのサンティアゴ・デ・コンポステラまでの巡礼団の起点となり、それは今日まで続いている。



寺院がたたずむヴェズレーの丘の麓にきれいな小川のせせらぎに囲まれた田園風景の中に瀟洒に立つレストランがある。私達が訪れた年のミシュラン・ガイドでフランスに7軒しかない3つ星レストランのひとつ「エスペランス」である。


宿泊すれば外観から想像できない恂爛とした内装と調度に彩られた一室で中世にタイムスリップし、王侯貴族の気分で一夜が過ごせる。果物がふんだんになり花々が咲き競う庭園の散策もよい。シェフお奨めのメニュー13品は絶品だが、残念ながら小さな日本人の胃袋には収まりきれない。ワインはエスペランスの亭主が手塩にかけた純ヴェズレー産の逸品である。


レストランの中央にあるグランドピアノの上にロストロポーヴィッチが聖マドレーヌ寺院の中でチェロを抱えて演奏している絵ハガキ大の写真が飾ってあった。「とうとうここまで来たのね。」と妻が感慨深げに云った。


ヴェズレーへの道をたどるこの旅のすべての始まりは一組のLDにあった。1996年の私の誕生日に妻から発売間もないロストロポーヴィッチの演奏するバッハの無伴奏チェロ組曲6曲のLD3枚組をプレゼントされた。若いころからバッハに傾倒していた私への最高の贈り物であった。


世紀の名演奏とされるカザルスのかすれるような音に没入していた私にとって映像つきのこのLDは想像を超えて新しい世界だった。さらにこの演奏風景の背景になっている寺院の美しさは衝撃的であった。穹㝫(きゅうりゅう=半球状)が綾なす窓や回廊の壮麗さはまさしく11世紀ロマネスク様式の白眉である。


この場所を訪れてみたいという願望は夫婦の間で日に日に高まって行った。ある日友人のM氏にその話をしたところ「ヴェズレーならよく知っている」と云う。来日したロストロポーヴィッチを築地に案内して寿司を食べに行ったこともあるM氏の話によれば、そもそもこの高名なチェリストは食いしん坊だと云うのである。


最初にロストロポーヴィッチがヴェズレーを訪問したのはレストラン・エスペランスへ美味しい料理を食べに行く目的からであったという。そこでエスペランスの亭主から近くに録画演奏をする素晴らしい聖堂があると教えられた。それがマドレーヌ寺院だったわけである。


M氏は自分の友人にフランス料理の研究家がいるからエスペランスを予約してあげるという申し出もあったが、たまたま姪がパリにいてフランス人の夫フィリップの先輩ムッシュウ・メレがリタイアしてヴェズレーに住んでいるので自分も久しぶりに訪問したいから一緒に車で案内してくれるというオファーがあり、この提案にのせてもらうことにしたのである。


マドレーヌ寺院の参詣を終えてムッシュウ・メレの家にたどりつき、奥さんやおばあちゃんにも暖かい出迎えを受けて徐々に旅の緊張がほどけて行くのが分かった。歴史ある文化に触れ、エスペランスの美味しい料理に舌鼓を打った2日間であったが、ムッシュウ・メレが趣味で飼っている蜜蜂の香り高いミエルの甘さがヴェズレーの思い出を一層深いものにした。


ムッシュウ・メレの家の窓から夕映えのヴェズレーの丘を見上げると、はるか原野の向こうにマドレーヌ寺院の全貌が浮かび上がっていた。その一瞬、私の脳裏に湧き上がった静かな歌声はあの修道女達が1000年もの間、祈るように詠唱してきたグレゴリアン・チャントであった。


ロストロポーヴィッチの奏でるバッハは類を見ない素晴らしさであり、チェロの響きはその背景となったマドレーヌ寺院のロマネスク建築の重厚な存在観と共鳴していることは間違いなかったはずである。そして長年バッハの無伴奏曲12曲に傾倒してきた私ではあったが、この夕映えにかがやくヴェズレーの風景の中にその響きが姿をあらわすことはなかった。音楽は普遍的なものではあるが、やはりその音楽の住み家というものがあるのだろうか・・・。あの聖女のような修道女たちが歌うグレゴリアン・チャントがいつまでも私の頭の中に響き渡っていた。

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ヴェズレー・マドレーヌ寺院入り口回廊


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バッハの録画録音をするロストロポーヴィッチ


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レストラン・エスペランスのピアノの上にある

ロストロポーヴィッチの演奏写真



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小澤征爾さんと音楽について話をする(9)

Theme: 気になる本・気になる記事 2012-03-27 09:14:24

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村上春樹・小澤征爾

<小澤征爾さんと

音楽について話をする>(9


☆小澤征爾さんに期待するもの☆

この対談への感想を述べればきりがありませんので、このあたりでやめておこうと思います。小澤さんはしばらく指揮を休んで、後輩への指導に力を入れるようなお話を聞きました。後輩への指導と云う考えや実際の活動は本当にすばらしいものがありますし、村上さんとの対話の中でも相当な紙面を割いています。



「若い人のためのサイトウ・キネン室内楽勉強会」「小澤国際室内楽アカデミー奥滋賀」「小澤征爾スイス国際音楽アカデミー」などすでに日本だけでなく国際的な若手育成のプログラムが活動しています。斎藤先生から教わった音楽の骨組みを作る技を後世に残す努力は正に小澤さんの使命感の表れだと思います。



自分の生き方と云うもの、つまりその人の人生観と、外から見たその人への希望というものは、かなり違うといことに私達はしばしば遭遇します。私達は小澤さんが命を削って後輩を指導しようとしている気持を勿論支持しますが、もっと望んでいることは小澤さんにいつまでも生きていて欲しいということなのです。音楽を聴く時にいつも小澤さんを意識し、小澤さんと一緒にいろいろな曲に触れ、同じ時に同じ空気を吸って、同じ大地の上で生きていたいと心から念願しているのです。一生懸命に仕事をしなくていいから、どうか一日でも多く生きていて下さい。

一方、村上さんがこのような企画を立てて、日本が生んだ不世出のマエストロから信じられないほどの小澤音楽論を引き出したことに心から感謝しています。



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小澤征爾さんと音楽について話をする(8)

Theme: 気になる本・気になる記事 2012-03-21 07:44:28

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村上春樹・小澤征爾

<小澤征爾さんと

音楽について話をする>(8

☆小澤征爾の凄いところ☆



小澤さんが若いころから非常にしっかりした音楽コンセプトを持っていることは小澤さんへの評価の基本になっていたと思います。また奏者の一人一人と対話していると思います。そのあたりを村上さんは「小澤さんは1960年代にアメリカでデビューされて、その時はまだ20代です。ところがこうしてレコードを聴くと,既に音楽的にしっかり完成されているんですね」「ニューヨーク・フィルとかシガゴ交響楽団を指揮し、自分の世界を提示して、外国の聴衆を強く惹きつける。一人の無名の青年にどうしてこんなすごいことができたんでしょう」と聞いています。



小澤「それは僕が斎藤先生にみっちりとたたき込まれたからです・・・若いうちから技術がもうぴったりと、僕の身体に入っていたと云う事があります。大抵の指揮者は、さんざん苦労するんです、その技術を身につけるために・・・」村上「それはタクトを振る技術と云うことですか」小澤「・・・本番の時とう振るかなんてほとんどどうでもいいんです・・・それとは別に、練習の時にオーケストラを仕込むための棒の振り方というのがある。僕はそれを斎藤先生から教わりました。そういうところはね、僕の場合最初からまったくぶれがないです」



小澤「だからね。レニーの指揮をまじかに見ていると、あるいはカラヤン先生の指揮を見ていると、だいたい分かるんです。ああ、この人はこういうことをこういう風にやろうとしていんだなと。・・・だからそのまま真似しようという気持ちになれません。それに比べて、自分の技術をちゃんと持っていない人って、他人の型だけ真似ちゃうんです。・・・僕の場合はそれはありませんでした。小澤「僕は十代の終わりにはもうその技術を身につけていました。・・・なにしろ中学校3年のときから指揮をやっていたから。・・・プロにオケを指揮するように前にもう7年くらいに実際にオーケストラを指揮していたわけだから」



小澤さんの経歴や評価はいろいろな場面で充分聞かせてもらっていますからよく知っているつもりですが、やはり本人の口から自信を持った確かな証言を聞くと、「やっぱりそうか」と納得します。その斎藤先生が止めるのを振り切って貨物船に乗りこんで、単身マルセーユからバイクで欧州大陸を北上してブザンソンの指揮者コンクールで優勝したの若き日の小澤さん。今、まったく気取らずいとも簡単に凄いことを話す、あの語り口調が耳に響きます。





筆者注1=斎藤先生=斎藤秀雄。19021974。チェリスト、指揮者、桐朋学園創設に関わる。

2=レニー=レナード・バーンスタイン



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小澤征爾さんと音楽について話をする(7)

Theme: 気になる本・気になる記事 2012-03-17 06:42:40

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村上春樹・小澤征爾

<小澤征爾さんと

音楽について話をする>(7


☆マーラーのポリフォニー☆

「ほら。あれを聴いてごらん。あれがポリフォニーだよ」遠くから聴こえる鳥の声、子供の遊ぶ声、森の木の葉がすれる音・・・いろいろな自然の音が重なるのを歩きながら聴いていたマーラーがつぶやいた一言。マーラーが一緒に歩いていた誰かに云った言葉。それが誰だったか筆者は、はっきりとは覚えていませんが、こんなことを話せる親しい音楽家といえば副指揮者のブルーノ・ワルターか、「グスタフ・マーラーの思い出」を書いた女友達のナターリエ・バウアー=レヒナーのような気がします。雰囲気から云えば多分後者でしょう。マーラーが絶えず“ポリフォニー”を意識していた証拠です。



ポリフォニーという音楽はすでに1000年も前に演奏されてきて、音楽技法としての対位法も随分と発達して、バッハのフーガのような形で私達が理解するところです。ポリフォニーは全く異なったメロディーを多重的に重ねて一つの音楽を形成することですが、問題はその違う音楽の違い方です。極端に云えば仲のいい選手の連携で攻撃とMF、ディフェンスを形成してしてサッカーを完成させるのと、体格も技量も性格も全く違う選手が個人技で戦うサッカーのような違いです。いいとか悪いとかいう問題ではありません。音楽の作り方の差といってもいいでしょう。マーラーの音楽はきわめて異質の音楽、崇高と卑俗、悲嘆と歓喜、夢想と現実、死と生、個人と宇宙、これらが渾然とそして次々に出現します。それらすべてが同時に鳴り響くときにカオスのような恐ろしい響きとなります。



村上さんと小澤さんの対話ではこのマーラーをどのように演奏するのがよいのかつまびらかにして行きます。「その通りだな」と我々を納得させます。ブルーノ・ワルターのマーラーは大好きですが、2人の対話の結論に筆者としての異論はありません。



マーラー特有のポリフォニーをどのように演奏するべきかという村上さんと小澤さんの議論です。村上「ブルーノ・ワルターの演奏は・・・マーラーのシンフォニー全体を一つの大まかな、がっしりとしたフレームに収めようとする・・・たとえばベートーベンのシンフォニー的な構成に近づけようとする・・・もちろん音楽としてはとても優れている・・・でも今僕らがマーラー的なものとして捉えているのとはちょっと違っているんじゃないかと」小澤「今あなたが言ったような意味合いにおいてはレニー(バーンスタイン)の功績はすごく大きいと思いますよ。<ここの部分はただこういう風にやってくれ。ほかのところのことは考えるな>・・・何しろ自分のパートに専念しろと」小澤「ABという2つのモチーフを同時にやる場合こっちが主、こっちが従という区別は昔(マーラー以前?=筆者注)はちゃんとあったのです。でもマーラーの場合全く同格でそれをやります。だからある人はAという音楽を渾身の力を込めて弾かなくてはならないし、Bという音楽を弾く人はBという音楽を渾身の力を込めて弾かなくてはならない。それを同時進行的にまとめていくのが指揮者の役目です・・・楽譜にそう書いてあるんです。実際に」



マーラーのホモフォニーはあまりにも美しく、あまりにも甘美です。しかしポリフォニーは演奏者にとっても聴く人にとってもあまりにも難解です。特に壊滅的な音を響かせる究極のポリフォニーはどんな評論家もその意味を解釈出来ずにいます。しかし小澤さんは云います「マーラーの音楽って一見して難しく見えるんだけど、中をしっかり読み込んで、いったん気持ちが入りさすれば、そんなにこんがらがった音楽じゃないんだということです。ただそれがいくつも重なってきていて・・・結果的に複雑に聞こえちゃうんです」



現代のマーラー演奏はすべてポリフォニーをそれぞれ独立させて,しっかりと構成して内声の音も聴かせますいます。日本のオーケストラもマーラーが演奏できない時代もあったのですが、今では堂々たる演奏が聴けます。世界中のの演奏が随分うまくなったものだと感慨がわいてきます。


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ナタリエ・バウアー




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