ムッシュウ・シエルの自選アーカイヴ
<パンのお話>
パンで明けるパリの朝
パリの朝はパンと共に明けます。市内のおとぎ話のような美しいプチ・ホテルに泊まって、おおらかなマダムのサービスで、縦に大きく切ったバゲットにミエル(蜂蜜)をたっぷり塗って目が覚めるような濃い目のフレンチ・カフェと共にほおばる。「あ、ここはやっぱりフランスだ」と実感するひとときです。
パリのパン屋さんは朝が早い。朝6時に近所のパン屋さんの店先に立つとパンが焼きあがった香ばしい匂いが店の中から馥郁と流れ出してきます。アパルト・ホテルに泊まった私達の日課は毎朝、近所のフランス人の老若男女の列に混じってバゲットを買いにパン屋さんに通うことです。その楽しさと美味しさがその日一日の活動の力になるのです。
バゲットとミエル
もちろん、ランチにもディナーにもパンは食べます。しかしフランスの「朝のパン」は独特に存在感があります。他に何もないからということもあるかも知れません。フランスの朝ごはんはコンチネンタル風の中核にあるのでしょう。私達が普段ホテルで食べる朝ごはんは英国式です。コンチネンタルつまりヨーロッパ大陸の朝食は実に簡素なもので、パンとコーヒーだけです。バターは付けません。でも朝のパンの存在感はそれだけではないような気がします。パンはそれ自体フランス文化の主役になるような大きな存在なのです。
フランスの家庭などで見ていると、結構バゲットに甘いものを付けて食べています。例によって輪切りではなく縦に切ったバゲットです。甘い食べ物の主体はミエル(蜂蜜)とかコンフィチュール(ジャム)といったものです。ハムエッグなどの話をすると「エッ?朝しょっぱいものを食べるの?」としかめっ面をするのです。(笑)
バゲット半分
朝のパンの心豊かな雰囲気は何もパリに限ったことではありません。フランス中どこへ行っても同じです。ランスへ行っても、ニースへ行っても、モンサンミッシェルへ行ってもパン屋さんを取り巻く雰囲気はどこも同じです。バゲットが一人で食べきれないと思ったら「ドゥミ・バゲット、スィルヴプレ(バゲット半分下さい)」と云えば若い女の店員さんがちゃんと半分に切ってくれます。ただし日本のように袋になどは入れません。手の巾しかない小さい白い紙をくるっと巻いて手渡してくれます。
よく街角で少年が小さい紙にくるんだバゲットを遊び半分に持っているうちに道路に転がしてしまっているのなどを見かけます。道路は犬がたくさん散歩しているのであまり清潔とはいえませんので、家でお使いを命じた母親にどのような報告をしているか少々心配です。
スーパーマーケットではまだレジに行かないうちに籠の中のパンをかじっている人もいます。だいたいが若い男ですが・・・。レジであまり待たせるので結局全部食べてしまいました。「あの~僕バゲット1本たべてしまったんですけど・・。」と正直は正直。レジのオバサンは肩をすくめてちゃんとお金を払わせています。この光景あまり珍しくないのかもしれません。
丸いパンと長いパン
ポワラーヌでは丸いカンパーニュ(田舎のパン)を買いましたが、普通パン屋さんで買うのはなんと云ってバゲットがほとんどですが、もう一つ好きなものに「コンプレ(丸ごと・全粒)」があります。これは玄米ならぬ玄麦を臼で挽いてパンに仕立てたものです。むっちりと重く、噛みごたえのあるパンで如何にも健康に良さそうなのです。
ある日近所のパン屋さんに行って「丸いコンプレ1個下さい」と若い女の店員さんに頼みました。すると彼女は細長いコンプレを持ってきて「はい」と渡してくれました。「違いますよ。丸いのって頼んだんだけど。」すると彼女はけげんな顔で「だから長いのを持って来たんですけど・・・」あれ!なんか変だなと気が付きました。
筆者の発音が間違っていたのです。「丸い」はフランス語で「rond」です。また「長い」は「long」です。どっちも日本語で書けば「ロン」ですが、実際は全く違う発音です。「rond」はほとんど「コン」と聞こえるような発音ですが日本人には苦手な発音なのです。以前にフランス語の女の先生に「日本人とスペイン人はどうしてRの発音が出来ないんでしょうね!」と云われたことがあります。「ははん・・・スペイン人もR発音が下手なんだ」と妙に安心したりしたことを思い出しましたが、こんなところで痛い目に遭うとは思ってもいませんでした。すぐに「コンプレ・コン」と云い直すと「あ!分かったわ」と丸いパンを持ってきてくれました。
ご飯の文化とパンの文化
気象や地質がいかに食べ物に影響を与えるか・・・世界を2分する「小麦文化」と「米文化」は非常に分かりやすい例でしょう。地球の東と西を分けたこの文化の差は同じイネ科の「麦」と「米」の生育環境の差です。低温乾燥の麦と高温多湿の米の産地の差、その食文化の差が現代もまだ続いているのです。輸送手段がこれだけ発達した現代ですらこのようですから、輸送手段がない時代では「地のもの」を食べるしか方法がなかったでしょう。あとは燻製、干物、塩漬、砂糖漬などの保存加工によって長期保存や輸送に耐える方法が採られたと思います。
私は「フランスへ何故行くの?」と聞かれた場合の極端な答えは「バゲットを食べに・・・」です。そのくらいフランスのパンは好きです。パンの起源はずっとずっと昔の中近東にありますが、そこからやってきたパンはフランスに定着し、その広大な平野で何千年もかけて成熟し、昇華した「小麦文化」の結晶に違いないと思います。
年配のフランス人はそれでも「昔のパンはもっとうまかった」と云います。美味しさを損ねている原因の一つに国民の健康を気遣う政府の介入もあります。例えば「混入する塩分の量を減らせ。」といった命令です。それでもめげずに美味しいパンを作り続けている?パン屋さんもあります。
日本で美味しいパンはあきらめろ!
ある日、パリ在住の日本人数人で集まる機会がありました。サンルイ島にある日本でも有名な装飾芸術家の家に新聞記者、料理人、陶芸家など全く職種の異なったメンバーが集まって食事会をやったのです。その時の熱い話題はパンのことでした。「何故フランスのパンは美味しいか?」「何故日本でおなじ食感のパンが出来ないか?」意見が多くて数時間も話が途切れませんでした。
いいろいろな意見があったものの結論は「日本でフランスと同じパンを食べるのは諦めろ」ということでした。私を除く全員がフランス在住でしたから、その言葉は私一人に向けられたものです。いやだったらフランスに引っ越してこい!という笑いが結論でした。
小麦文化の深い歴史
フランスのパン作りコンクールで日本人職人がグランプリを取ったこともあります。にもかかわらずその人が日本でパンを作っても思うようには行かないのです。パンを作っているものはパン作りの技術だけではないということなのです。
つまり美味しさを決定づける要素はまずは原料の小麦の質、発酵菌、原料の塩の成分、焼窯の様子、大気の温度や湿度などあるゆる要素がからんでいるのです。このうち原料の小麦だけとってもその選択は実に多様です。日本でお米の選別が厳しいように小麦文化の土地での小麦の選別は日本の比ではありません。
日本のパン作りで小麦粉についてどこの産地かとか、品質はどうかなど勿論研究はしていますが、歴史の差は明らかです。一方ヨーロッパでは一般にお米の産地、種類、品質などあまり気にしていませんし、日本におけるように厳密なお米の味や食感に対する評価は存在していません。歴史的文化の差とはこのようなものなのでしょう
日本進出の有名なパンは本国と同じ味?
フランスの有名なパン屋さんが日本にも進出しています。パン好きの筆者のことですから、出来るだけ数多くのパン屋さんでバゲットを買っては試食しています。しかしどうしてもあのフランスで体験したバゲットの感動に巡り合えないのです。
「フランスのバゲットが食べたければフランスへ引っ越して来い!」と云われたサンルイ島の連中とのディスカッションの結果がこんな風に的中してしまったのはまことに残念と云うほかはありません。フランスの名高いパン屋さんもあのフランスのパン作りコンクールで優勝した日本の青年と同じ落とし穴にはまってしまったのでしょうか。
日本の細菌が犯人?
フランスの有名パン屋さんの日本でのパン作りは材料やレシピ、発酵工程、窯や温度の管理、製造者の技術などなどおそらくパン製造のあらゆるノーハウがフランスの本店と同一に間違いないでしょう。それでもどうしても同じものが出来ないのはどうして???
それは「環境」という以外には考えられません。環境とは何だろう?パン屋さんはそれを研究して頂きたい。そうすればきっとフランスでのものと同じ感動が得られるのではないでしょうか。それは湿度なのでしょうか。地元調達の添加物?それとも発酵に使う天然酵母の種類やその知られざる活動?あるいは日本特有の細菌の作用?それとも???
日本でも出来る美味しいパン!
実は最近になって物凄く美味しいバゲットを作っている国内の小さいパン屋さんを見つけました。まだ童顔の残るこの青年がどこでどう修業して来たか、どんな経歴か、どんな作り方をしているかまだ一切分かりません。一つだけ分かっているのは小麦をフランスから粒のまま輸入して自分で製粉していることだけです。つまり日本でも美味しいバゲットを作る可能性があると云うことです。
時間はかかるでしょうが、パンを食べる人々とパン屋さん自体に問題意識さえあれば何かの方法で日本でも必ず美味しいバゲットが作られるようになり、サンルイ島の連中の鼻をあかすことが出来る日がきっとやってくるのではないかと思っています。「早く日本へ帰ってこい!」と。
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