20200621 秀樹のこと。皇さんの思い出話 | 忘却図書館

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ブログを始めて7年が経過。沈黙図書館の名称を、後期高齢者にふさわしい名称に変更しようと思う。色々と思うところがあって。
小説家・編集者の塩澤幸登が無資格で司書を務める小さな図書館、わたしの徒然の思いを綴るメッセージ・ボードであることに変わりはない。

秀樹の秘話。広島にいたころの話。

先週の金曜日(一昨日)に、

六本木のハイヤットのカフェで元テレビ朝日のプロデューサー、

〝テレ朝の天皇〟と呼ばれた、皇(すめらぎ)達也さんに会った。

『昭和芸能界史』の続編の取材のためのインタビュー。この人は昭和16年生まれ、

石川次郎さんと同世代。カメラを持っていくのを忘れて、写真を撮れなかった。

テレビの世界というより、芸能界のフィクサーの一人。こういう人である。

Wikipediaより。

皇 達也(すめらぎ たつや、1941年5月4日 - )は、日本のテレビプロデューサー。

テレビ朝日にて事業局長、取締役制作局長を歴任後、テレビ朝日サービス代表取締役社長を務めた。テレ朝の天皇の異名で知られた。父は元広島大学学長で教育学者の皇至道。

叔父も東北大学名誉教授で、玉川大学文学部長を務めた教育学者の皇晃之。

広島大学附属中学校・高等学校、慶應義塾大学文学部卒業。

慶應在学中からNETテレビ(日本教育テレビ。後のテレビ朝日)でアルバイトをしており、

卒業後正式に入社。ドラマスタッフを経てバラエティ番組担当となり、

人気番組を手がける看板プロデューサーとして活躍。映画、演劇、新聞といった

あらゆるジャンルから集まって、テレビという怪物に立ち向かった先輩たちを

"テレビ第一世代"と名付け、自らを純粋テレビ育ちの"テレビ第二世代"を自認していた。

「外部との交際が上手くない」と言われたテレビ朝日の社風を破り、

プロダクション、レコード会社、他局の同業者と交際を広げた。その積極姿勢が実り、

萩本欽一、タモリ、武田鉄矢、ビートたけしなど、当代のテレビスターの中でも最も

テレビ的なタレントを掌中に収め、同時期に報道番組のプロデューサーとして

活躍していた小田久栄門とともに「テレ朝の天皇」の異名を奉られた。

1999年に取締役に昇進。その後、子会社・テレビ朝日サービスの社長、顧問を経て、

現在はジャパン・コンテンツ・コンサルティング社長。

この人の秀樹についての思い出話、皇さんも出身は広島である。

皇さんが喋ったそのままを再録。

面白い話があるわけじゃないんだけど、昭和45年ころかな、芸映の鈴木さん(鈴木力専務)から、えーと、登町(のぼり=幟町らしい)っていったかな、三河会館かな、ライブハウスがある、と。そこで、オニイチャンがマネジャーやっててバンドやってる、そこにいいコがいるらしい、と。広島に帰るんだったら、どんなのか見てきてくれないか、と言われた。それで、広島に帰ったときに見に行って、オニイチャンに会って、それで、まだ全然形になっていないんだけど、ああ、このボーヤかと。それで、なんかあったら、声がかかるかもわかんないよ、といって。それで東京にもどって、力さん(鈴木専務)にその話をして、オレとしてはテレビ局の人間が、新人歌手のスカウトするのもどうかと思って、力さんと相談して、話を上条(上条英彦)に、お前、見に行ってこいって渡したんですよ。それで、上条が広島まで秀樹に会いにいって、秀樹が東京に出て来ることになったんです。業界の人間で秀樹にあったのはぼくが一番最初だと思いますよ。広島出身ということがあるんですけどね。

吉川晃司もそう。彼は渡辺プロの音楽学校の広島校にいたのを見つけた。

秀樹は初めて会ったとき、なんか一、二曲歌ってくれたんだけど、これは売れるなっていう、才能を見極めることが出来なかった、ああ、こんなもんかと思った。でも、オレの話から、上条ほか、何人かの東京の芸能界の人間が広島まで彼を見に行って、西城はああいうことになっていったんだよね。

本人は死ぬまでまっすぐな人間で、一生懸命に仕事した。残念ながらああいう死に方しましたけど。今でも、奥さんとは時々電話連絡で、子供連れてきてメシ食いましょうっていって会ってるんです。

という話だった。

………

秀樹を東京に連れてきたのが上条だというのは、わたしも知っていたが、

一番最初に秀樹に会いにいったのが皇さんだということはわたしも知らなかった話。

 

皇さんにはいちおう「秀樹の本、作ろうと思っているんです」という話はした。

細かなことはいまは書けないが、おおまかな筋道は見えてきた。

今日はここまで。

 

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