20180723 ピンク・レディー | 忘却図書館

忘却図書館

ブログを始めて7年が経過。沈黙図書館の名称を、後期高齢者にふさわしい名称に変更しようと思う。色々と思うところがあって。
小説家・編集者の塩澤幸登が無資格で司書を務める小さな図書館、わたしの徒然の思いを綴るメッセージ・ボードであることに変わりはない。

今日の出しものは芸能の小ネタ。P・Lのこと。

 

ビンク・レディーは二人とも可愛い女の子だった。オレは残念ながら彼女たちの全盛期を身内としてみていたわけではないから、あんまり、これが真実の姿だというようなことは書けない。

ただ、これもテレサ・テンなどと同じなのだが、一瞬だが、同じ船に乗り合わせるようにして、オレにとっては忘れがたい、たぶん、彼女たちにとっても忘れられない、経験を共有したのではないかと思ってこれを書いている。もしかしたら、彼女たちにしたら、いろんなことがありすぎて、[そんなことありましたっけ?、すっかり忘れていました]というかもしれない。しかし、それは忘れるはずのない類いの思い出である。

なにしろ、1970年代はいまから40年以上昔である。あのころ二十歳台だったら、いまはもう六十歳代にたどり着いて、うっかりすると高齢者である。あのころ、芸能の取材現場にいて、当時の芸能界を生体験していて、いまでもそのころと同じような調子で、取材したり原稿書きしたりしている人など、ほとんどいない、オレ以外にいないだろう。かつての、同僚たちに関していえば、半分くらいは既に鬼界に入っていて、残りはみんな年金生活者である。

1970年代の日本の芸能界のことを考えると、大きく二つに分かれていると思う。それは本当に偶然なのだが、オレが月刊の平凡を作っていた時代と、そのあと、週刊平凡という週刊誌を作っていた時代である。この二つを簡単に区分けすると、月刊平凡は中・高校生を中心にした十代の子たちの芸能雑誌であり、週刊平凡のほうは大人向けの週刊誌だった。そして、70年代の前半は現在の形の芸能界の基本形の[誕生期]、後半はその[成長期]にあたる。そして、80年代を通して〝変容〟し〝成熟〟した。そして、オレもそういう運命のお皿の上にのっけられて、70年代の前半にはそういう類いの経験を、後半にはまた別の経験をした、ということだと思う。

まず、月刊平凡とか週刊平凡とか、当たり前のように書いているがそれぞれ休刊=廃刊になってから、もう28年もたつ。ということは美空ひばりが死んでから28年、昭和天皇が亡くなられたのも28年前のことなのである。昭和が終わったのは西暦でいうと1989年なのだが、1970年代はそこからもさらに10年という時間を遡った前の時代である。オレが書いているのは、要するに[昭和]と呼ばれていた、たけなわの時代のことなのである。

 いま、日本の社会で生活している人たちの何割くらいの人があのころ、昭和の経済成長率が、いまの中国なんかよりずっとすごくて、毎年、ウソみたいな勢いで給料が上がっていた、昭和の四十年代、五十年代のことを経験しているだろうか。いま思いだしても、本当に活力に溢れた時代だった。

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ここでは、ピンク・レディーのことを書くつもりでいるのだが、彼女たちのことを論じることは、たぶん、あの時代を生きた、アイドルに憧れた膨大な量の女の子たちのことを論じることなのだと思う。ピンク・レディーは70年代の後半にまばゆい光を放ったタレントだったが、あのころは芸能界もいまほど複雑に機能分化、多重構造化していなくて、憧れも共感もいまよりもっとストレートに存在することのできた時代だった。とりあえずメンバーを紹介する。

 

   ミー(根本美鶴代)1958年3月、ケイ(増田啓子)1957年9月、

   年齢的には山口百恵や桜田淳子などと同じように、昭和33年、34年の生まれ。

   二人とも静岡県生まれの新幹線上京組

 

これはネットのなかからそのまま拾ったデータだが、昔は女の子の名前のそばには必ず身長・スリーサイズが張り付いていたものだが、いま、ほとんどの人にBMWじゃなかった、BWHのデータはついていない。もしかして、いまやバストサイズは女の子の個人情報のうちの最重要指定項目に成り下がってしまっているのかも知れない。ウィキペディアのなかで、当時のアイドルの情報をチェックしたら、スリーサイズが記載されているのは水沢アキだけだった。水沢アキのスリーサイズB85W63H88は2008年の公称だというのだが、2008の水沢アキはたしか54歳で、いま64歳になるはずだが、いまでも同じ体型をしているのだろうか。彼女のことは、いつか別途で書く。

ピンク・レディーが芸能活動を始めた時期だが、歌手としてのデビューは1976年8月。ピンク・レディーは最初、ヤマハの音楽コンテスト(ポプコン)から出てきたデュオで、本人たちの好みは素朴なフォークソングだった。それが、日本テレビのオーディション番組として有名だった『スター誕生!』で注目され、ギター片手に素朴な歌を聴かせるという、本人たちの希望とは正反対の、ギンギラギンのミニスカートのラメの衣装に、振り付けに合わせて腰をふりふり踊る、山本リンダばりの歌謡曲とポップスをミックスさせた『ペッパー警部』という曲でデビュー。この歌のレコードディレクターはロカビリーで一時代を築いた飯田久彦、歌の作詞作曲は阿久悠と戸倉俊一、作詞作曲はリンダが歌った『どうにもとまらない』と同じだった。プロダクションは株の売買で一儲けした人たちが作った新しいプロダクションだったが、中心になってマネージメントしたマネジャーは芸映にいて、西城秀樹とか岩崎宏美とかのプロデュースの責任者をしていた相馬さんだった。

ピンク〜がデビューした1976年8月は、オレが週刊平凡に異動して何ヶ月かしたころで、ことのきっかけは、所属レコード会社のビクターの宣伝部の人が女の子二人と現場のマネジャーを連れて、編集部に挨拶に来たところから始まる。二人がどんなカッコウをしていたかまでは覚えていないのだが、二人とも可愛い、まだまだ素人みたいな女の子で「こんどデビューするピンク・レディーです」と紹介されたのを、恥ずかしそうに受けて挨拶するのが好感を持てた。歌を聴いてみると、「ペッパー警部」だったのだが、フォークソングとは大違いの、リズムの効いた、えらく調子のいい歌だった。それで、レコード会社の某宣伝マン氏(名前を忘れてしまった)が「なんでもやりますから、週刊平凡に出してください」というのである。このころは本当に各レコード会社が毎月、手を変え品を変えて新しい新人をデビューさせていて、歌手たちはみんな、よほどの強力なキャンペーン戦略がないと、いい形でデビュー出来なかった。当時の週刊平凡の発行部数は60万〜70万部くらい。強烈な広報効果を持ったメディアだった。事務所もレコード会社も生き残りに必死だった。

ピンク・レディーは本人たちの意向にあまり関係なく、アメリカンコミックとセクシー路線の混ぜ合わさったようなイメージで売ろうとしていて、本人たちがどのくらい乗り気だったかは別の話として、新しい、画期的な商品であることはまちがいなかった。それにしても新人歌手でデビューして「なんでもやります」という人も珍しく、それだけピンク・レディーのスタッフは彼女たちのデビューに自分たちの命運をかけていたのだろう。

それで、いろいろと企画を考えて、そういうことだったら、彼女たちをホステスに仕立ててキャバレーに潜入取材させたら面白いかもしれない、と思った。これははっきり覚えていないのだが、言い出しっぺはオレではなく、会議の席上で,こういうグループがデビューしてなんでもやるといってるんですが、という話から、当時の副編集長だったEさんが「ホントになんでもやってくれるんだったら、ハリウッドのホステスになってもらおうか」といいだして、「そしたら6ページくらいの読みものが作れる」、「シオ、お前、これやってよ」といったのである。週刊平凡の6ページで特集というのは、芸能プロダクションにとっては大変な話で、当時、活版1ページ80万円くらいの広告料金をもらっていたのだから、宣伝効果に何百万円という値段を付けてもおかしくない話だった。

銀座にハリウッドというキャバレーがあり、そこの社長の福富太郎さん(いまもご存命のようだ)という人と週刊平凡が仲よくしていて、そっちの宣伝にもなる、タレントも売り込みが出来る、雑誌も面白いという三つどもえでうれしがれる話で、トントン拍子で企画・取材が成立するのである。

当日、因果を含められてか、なにも説明されないままでやってきたのか、ピンクレディーの二人とハリウッドで待ち合わせて、取材の趣旨を説明した。本人たちはホステスと聞かされて、かなりつらそうな顔をしたのだが、マネジャーが「週刊平凡に出してもらえるんだぞ」といって、二人を説得し、衣装を着替えて、お店に入ったところで、ケイが泣き出したのである。ミーも深刻な顔をしていたが、そういう意味での気の強さは、ミーの方があったと思う。芸人としてのミーとケイを比較すると、女二人で夫婦ということもないが、いろいろなつらいことをミーが亭主、ケイが女房みたいな位置関係で、ミーがケイを励ましながら、いろいろな出来事を乗りこえていったのではないかと思う。その時も、ケイはしばらく泣いていたが、ミーから「がんばろう」といわれて、気を取り直して、取材を敢行した。お客さんにわけを話して、本当に席についてもらった。彼女たちは一生懸命に見よう見まねで接客していたが、本音でいったら、いくら週刊平凡に出してもらえるっていったって、キャバレーのホステスとして誌面に出るんじゃしょうがないじゃない、と思ったのではないか。

それで、一波乱はあったが、取材はうまくいって、これは誰か、ライターに原稿を書いてもらったと思う。この記事が彼女たちのデビューの成功にどのくらい寄与したかもわからない。しかし、芸能界のなかでの週刊平凡の購読率は大変なものがあって、テレビ局も新聞もよその雑誌もピンクレディーがこういうことまでして、レコードデビューし、タレントとして成功したがっているというメッセージは確実に伝わったのである。もちろん、この記事だけが彼女たちがタレントとして成功した原因ではないだろうが、事務所や彼女たちにこういういわれたことはなんでもやる、とにかく成功したいという一種の野望に近い情熱がなかったら、ビンク・レディーはあんな大ブームを巻き起こすアイドルにはなっていなかったのではないかと思う。それでも、彼女たちがあの取材で傷ついたことだけは確かで、オレとピンク・レディーの二人はあの取材で知り合いになったが、そのあと、親しく言葉を交わすこともなかったし、ピンク・レディーの二人がデビューしたときにホステスの格好をしてキャバレーで取材を受けた話を思い出として語ることも一度もなかった。だから、しょうがなくてやったけれども、二人にとっては出来れば忘れたい過去の一つだったのだと思う。ただ、キャバレーのホステスになったといったって、芸能週刊誌の企画ページの話だから、スキャンダルになるとか、そういうことではなかった。そのときの現物の記事も大宅文庫で探せばどこかにあると思うが、今回はそこまではやらない。

彼女たちが解散を発表するのは確か1979年で、キャンディーズが「普通の女のコにもどります」といって引退したり、山口百恵さんが結婚・引退したのと同時期のことだった。70年代を通して活躍した、〝普通の女の子意識〟を保持した〝女のコタレント〟がある種の達成感のなかで自分たちに終止符を打とうとしている、オレにはそう見えた。このすぐあとに松田聖子さんや中森明菜さんがデビューしている。

ピンク〜は二人とも、いまでもときどきだが、テレビで見かける。いまも昔も芸能の世界(テレビの世界)が生き残りゲームであることに変わりはない。ミーとケイを見るたびに、泣き顔で、大人たちが考えた無茶な取材に挑戦した〝冒険少女〟だったデビュー当時の〝素人娘〟の彼女たちを思い出し、タレントとして成功してくれてホントによかったと思う。あれで上手くいかなかったら、痛ましい記憶だけが残るところだった。

 

 今日はこれで終わり。 Fin.