大内順子さん…

昭和9年5月4日

中華民国の上海

フランス租界で生まれる。

父親…生物学者の大内義郎

上海自然科学研究所に勤務。

大内順子さん
幼少期は上海日本人街で育つ。


祖父…大内暢三(おおうちちょうぞう)

明治から昭和初期にかけて
政治家
(明治41年、福岡3区より衆議院議員5期22年間務める)

として日中友好親善につとめた。

大内暢三の生家

福岡県八女市立花町白木3245番地

明治17年建設

町の有形文化財に指定されている。

今は八女市の
観光名所になっている。

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大内暢三…

旧柳川藩士
大内精一郎の長男

明治7年3月生まれ

昭和19年12月31日没…71歳

東京専門学校
(現早稲田大学)政治学卒業


明治27年7月
コロンビア大学(米国)入学
法律学修士の学位を修得

ヨーロッパを視察
明治30年2月に帰国。


その後
早稲田大学講師

政治家を経て

東亜同文書院大学
第6代院長
(昭和6年から昭和15年)

初代学長
(昭和14年から15年)
務める。


大内暢三…

日中提携という理想と
日中戦争という現実の間で苦悩する

失意の中
昭和15年…
東亜同文書院大学の
院長と学長を辞職し帰国。

昭和19年12月31日
東京五反田の自宅で
逝去…71歳


東亜同文書院…

明治27年~28年
日清戦争後

明治34年5月26日
中国(清朝)上海に設置された

日本人のための高等教育機関。

中国人対象の中華学生部もあった。


昭和14年12月には大学令によって

東亜同文書院大学に昇格する。

昭和20年8月15日
日本の敗戦によって
閉学となる。


大内順子さんが
上海で生まれた
昭和9年は

祖父…大内暢三さんは
上海の
東亜同文書院の院長をしていた。


………


太平洋戦争
(昭和16年12月8日)
直前に

大内順子さんは
母と姉と共に帰国。

疎開先を転々とし
岡山で終戦と父親の帰国を迎えた。

戦後
大地主だった大内家の地

福岡県八女市に移り住む。


小学校だけで
6回も転校を重ねたが

中学の途中から高校を卒業するまで

愛知県豊橋市に住む。

豊橋での生活が
彼女の思い出として
よく語られていた。


良い友人に恵まれ
生涯の友となった。


東亜同文書院大学の
学生や教職員を受け入れる
大学として

愛知県豊橋市
(旧豊橋陸軍予備士官学校跡)に

昭和21年

愛知大学を設立。


父親…大内義郎は
愛知大学創設に関わる為に
豊橋市に転居。

家族も豊橋に住む。


そして
大内義郎は
愛知大学教授となる。

愛知大学では
東亜同文書院大学を母体とする見解を発表している。

現代中国学部があり
中国研究が盛んな大学である。


………

その後

大内順子さんは

青山学院大学文学部英米文学科に進学する。

これが
彼女の運命を変えた。

入学してすぐに(5月)
「モデルの写真を撮らせて下さい」

と声をかけられた。

それが
「婦人画報」だった。

モデルをやる気は毛頭無かったが

「また 来て下さい」
と言われて

また行くうちに

他の所からも
モデルを頼まれるようになった。

そして
どんどん忙しくなってしまった。


大学は凄く授業が厳しくて

ある程度欠席すると
単位がもらえなくなる。

単位がもらえる範囲での
アルバイト感覚だった。


当時のモデルのギャラは凄くよくて

普通のサラリーマンの1ヶ月分の給料くらいを

1回の撮影でもらえる。


「何もしないで
ニコッと笑うだけで
そんなにたくさんのお金を頂くなんて
とんでもない」

「我が家の娘として
許せませんよ…」

と母親が
猛反対した。

大内順子さんも
モデルを本業にするのは良くないと思い

大学卒業と同時に
モデルを廃業した。


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「大学生の大内順子さん」


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昭和32年3月卒業式

青山学院大学文学部英米文学科の
4年F組と記念写真

最前列……森村誠一
後列中央…大内順子


20代半ば

交通事故で
顔面を負傷。


しかし

それからの
彼女の活躍は
凄かった。

彼女の魅力は

美貌やルックスだけではない。

人の心を惹き付ける品格がある。


彼女の品格や行動力は

祖父…大内暢三

父親…大内義郎

から

受け継いだものだろう。


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晩年の

大内順子さん

品格があって

美しい!!