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国際派日本人養成講座よりの転載です。
http://blog.jog-net.jp/201806/article_1.html
■1.世界卓球2018スウェーデンでの「独創的」なイカサマ
先日のスウェーデンでの世界卓球選手権を見ていたら、女子団体戦で韓国と北朝鮮がすごい「独創性」を見せた。両チームは当初、それぞれ単独で勝ち進んでいたのだが、準々決勝で対決することになると、突如、合同チームを結成してその試合はスキップして、次の準決勝に進み、日本チームと対戦したのである。
この「独創性」には脱帽だ。準々決勝まで別々のチームとして戦っていれば、両チームとも敗退するリスクは少なくなる。そして準々決勝戦をキャンセルして体力を温存し、しかもそれ以降では両チームからのベストメンバーが出場して、勝つ確率は高まる。
普通の国だったら、こんな前代未聞の「独創的」なイカサマは提案どころか、思いつきもしなかったろう。それを平然と実行した韓国と北朝鮮、および、そんな不公正を許した国際卓球連盟のスポーツマンシップを疑う。それに対して一言も文句を言わずに、実力で合同チームを退けた日本女子チームの敢闘ぶりは見事であった。
ちょうど、東京書籍(東書)と育鵬社(育鵬)とも、今まで読み比べをしてきた伝統文化のあとで、「きまり」と「公正」を論じた節があり、韓国と北朝鮮、国際卓球連盟の関係者は、これらに関して、わが国の中学校レベルの常識も持っていなかった事が分かる。
この部分は、両教科書とも記述内容はそれほど食い違っていないので、読み比べとしては割愛する。ただ、育鵬の4ページに対して、東書は8ページも費やして精しく説明しており、例題としてもグラウンド利用に関する各運動部の対立と合意など、中学生にも議論しやすい題材を使っている点を評価しておきたい。
■2.「人権の歴史」の違い
その次に、両教科書ともいよいよ日本国憲法に入る。東書は「第2章 個人の尊重と日本国憲法」と題し、「人権の歴史」から説き始める。
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人権が保障されるまでには,人々の長年にわたる努力がありました。特に17世紀から18世紀にかけての近代革命のときには,人権の思想が,身分制に基づく国王の支配を打ち破るうえで大きな力になりました。そのため,近代革命のときに出されたアメリカ独立宣言やフランス人権宣言などでは,全ての人間は生まれながらにして人権を持つと宣言されました。[1, p36]
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育鵬は、「4 人権の歴史」で「西洋における人権」との見出しの下で、こう説く。
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人権という考え方が強く意識されるようになったのは,国王や一部の貴族により専制的な政治(絶対王政)が行われていた17~18世紀前後のヨーロッパにおいてです。人々はこの強圧的な政治に対し,市民革命をおこし,近代的な国民国家をつくり上げました。
イギリスでは名誉革命によつて権利の章典が制定され,国王の絶対的な権力を制限するとともに伝統的な権利が確認されました。アメリカ独立宣言やフランス人権宣言は「人は生まれつき自由・平
等の権利をもつ」とうたい,人間として生まれたかぎり,だれもが一定の権利をもっていると宣言しました。[2, p53]
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東書はアメリカ独立宣言とフランス人権宣言を挙げ、育鵬はその前にイギリスの名誉革命で「伝統的な権利が確認されました」と指摘する。ここが大きな違いである。
■3.「人権宣言のインクが乾くか乾かないうちに」
実は、フランス革命とイギリスの名誉革命は、同じ革命と言っても雲泥の違いがある。思想の違いの前に、史実の違いを見ておこう。アメリカの歴史家サイモン・シャーマは、著書『フランス革命の主役たち』で次のように語っている。
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人権宣言のインクが乾くか乾かないうちに、国民議会は・・・反革命の陰謀を探るための委員会を設置して、郵便物は開封する、逮捕状なしに人は逮捕する、正規の手続きを踏むことなしに拘禁はする、移動の自由は妨害する始末です。[3]
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逮捕、拘禁はまだましだった。革命政府によるカトリック教会弾圧やルイ16世幽閉に反対して立ち上がったフランス西部ヴェンデ地方の農民は徹底的に掃討された。国民公会はこの地方を組織的に破壊し、反乱者を殺戮するよう決定し、それを忠実に実行したフランソワ・ウェステルマン将軍は次のように報告している。
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ヴェンデはもはや存在しない。女子供もろとも、われわれの自由の剣のもとに死んだのだ。私は彼らをサヴネの沼に葬った。子供たちを馬で踏みつぶし、女たちを虐殺したから、野蛮が生まれることもない。囚人を一人でも残したと咎められるようなことはしていない。すべて処分した。
...道という道は死体で埋まっている。死体が多すぎるので、何ヶ所かではピラミッドのように積み上げねばならなかった。
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大砲での処刑、船倉に閉じ込めたままの溺死刑、子供を馬で蹴り殺す刑等々、ヴェンデ地方での犠牲者は約40万人に上る。
都市部では、ギロチンによる粛正の嵐が続いた。
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グレーブ広場で、ついで革命広場と転覆王座の壁でギロチンがたえまなく働きつづけ、多いときには連日、5,60人の犠牲者が荷馬車で運ばれてきた。パリでは、革命政府が活動を始めた1793年3月から、「テルミドール9日」でロベスピエールが没落する1794年7月までに、1862名が処刑された。テルミドール後の処刑まで含めると最終的には2639名が犠牲となった。
斬首されたのは、貴族よりも職人や小商店主の方が多く、狂信というより惰性から処刑が行われた。
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このような恐怖政治が、各地で行われた。フランス革命による犠牲者は最終的には200万人に上ると推定されている。[4]
■4.「フランス革命は近代的自由の源泉ではない」
「基本的人権」の第一は人命の尊重である。人権を謳いつつ200万人も殺す事は、まさに「看板に偽りあり」だ。その「偽り」ぶりは、共産党幹部が平等を謳いつつ、一般の農民労働者を搾取して「貴族的」生活を享受した共産革命と良い勝負ではないか。
そもそも「すべての人間云々」は看板としてもアメリカの独立宣言の二番煎じであり、実際にはその正反対の人権弾圧を行った。この実態を見れば、フランス革命とは「人権の歴史」の中で語られるよりも、ロシア革命やシナ共産革命に連なる「人権弾圧の歴史」の中で語るべき出来事であった。
哲学者カール・ヤスパースは著書『歴史の起源と目標』の中で次のように言っている。
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フランス革命は、・・・近代的自由の源泉ではない。むしろ近代的自由は、イギリス、アメリカ、オランダ、およびスイスにおいて、連綿と伝えられた真生の自由に基盤を持つものである。[3]
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ヤスパースが近代的自由の源泉の一つと考えるイギリスの名誉革命は次のような経緯で起こった。1688年、時の国王ジェームズ2世は旧教復活政策に反対する7人の主教を投獄し、裁判にかけた。その専制支配を覆そうと議会が立ち上がり、王の長女で、かつ新教徒であるメアリーの夫、オレンジ公ウィリアムにオランダから兵を率いて来英するよう招請した。
1万3千の兵を率いてイギリスに上陸したオレンジ公に国内の貴族も次々と呼応し、結局ジェームス2世はフランスに亡命。オレンジ公は議会の出した「権利宣言」を認めた上で、ウイリアム3世として、妻メアリーと共同の王位についた。これを「名誉革命」と呼ぶのは、流血を見ない革命であったからである。
この権利宣言が、「権利章典」として立法化されたのだが、その正式名は「臣民の権利と自由を宣言し、王位継承を定める法律」という。ここではイギリス臣民の「古来の自由と権利」として13項目をあげ、たとえば、国王による法律執行の停止、議会の同意なき課税など、ジェームズ2世の行為を違法としている。
育鵬が「国王の絶対的な権力を制限するとともに伝統的な権利が確認されました」というのはこの事である。
■5.国家の保護なき人権は「絵に描いた餅」
ここで注意すべきは、イギリスの名誉革命は「臣民の権利と自由」であり、フランス革命の「全ての人間」とは異なることだ。東書の「人権の歴史」で、イギリスの名誉革命について言及がないのは、その著者たちが、イギリス「臣民」にだけ認められた権利と自由は、「人権」の名に値しないと考えたからではないか。
ここで知るべきは、すべての「人は生まれながらにして自由で平等な権利を持つ」とは言っても、それを護ってくれる国家がなければ「絵に描いた餅」に過ぎない、という事である。これは現代中国のチベット、ウイグルの民の悲惨さを知れば、すぐに分かる。いくら国連が人権宣言を出しても、国連は彼らの「人権」を護ってくれない。
イギリスの「臣民」の権利は、国家が護るべきものと国家の法律で定めた「国民の人権」だからこそ、実効性を持ち得たのである。
アメリカの独立宣言が「すべての人間は平等に造られ、おのおの造物主によって、他人に譲り渡すことのできない一定の権利を与えられている」と言ったのは、イギリス本国から不当な課税を課され、もはやイギリス臣民としての権利を護ってくれないと見切ったからである。そこで、自分たちで国を作り、それによって自分たちの権利を護ろうとした。
ことさらに「すべての人間」と言ったのは、イギリス臣民ではなくなっても、自分たちにも人権があるのだ、という主張である。それが世界中のすべての人々の人権を本気で護ろうとしたのではない事は、北朝鮮人民が圧政の下で何百万人単位で餓死した時も、米国政府は傍観していた事からも明らかである。
育鵬は「しかし,世界にはまだ人権を保障されていない人々が多く存在します」[2,p52]と語っているが、それに相当する表現は東書には見当たらない。本当に人権を学ぶには、その理念だけでなく、チベット、ウイグル、北朝鮮などの「人権を保障されていない人々」の実態を知ることが必要ではないか。
■6.フランスとイギリスの違い
育鵬は「民主主義をめぐるフランスとイギリス」と題したコラムで、フランスが「伝統や社会秩序より個人の理性や権利を重視」する一方、イギリスは「伝統や社会秩序を重視する傾向があります」として、哲学者エドマンド・バークの主張を紹介している。
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イギリスの政治家であり哲学者でもあつたエドマンド・バークは『フランス革命に関する省察』(1790年)という本を書き,君主制や貴族制や教会制度などからなる旧体制を打倒し,急激な改革を進めたフランス革命を強く批判しました。
バークは人間の自由や平等を守るためにこそ,旧体制を全面的に破壊したり,その中にこめられていた伝統的な考え方を投げすててはならないと考えました。伝統的な考え方の中で最も大切なもののひとつは,社会秩序を維持するために必要なモラルやマナーやルールに関するものであり,それらが守られてはじめて自由も平等も守られる,と説いたのです。[2, p53]
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保守主義の核心を述べたコラムなのだが、この短い、抽象的な文章だけでは理解が難しいだろう。
■7.理性万能主義による「闇夜の暴走」では
フランス革命は「伝統や社会秩序より個人の理性や権利を重視」したというように、自分たちの「理性」によって、それまでの旧習を打ち破って理想的な政治が実現できると考えたのだろう。その理性万能主義は、「一寸先は闇」という伝統的な知恵を信じず、自分は道を知っていると思い込んで、突っ走るようなものだ。
しかし、現実には人間の理性には限界があるので、旧来の宗教や道徳が果たしていたプラス面に気がつかずに、それらをすべて破壊してしまった。また、自分たちの考えに欠陥があるかも知れないとは考えず、反対者の声には耳を貸さずに、弾圧した。
フランス革命も、共産革命も、宗教や伝統を破壊し、反対者を殲滅したのは、自分たちの理性は万能だという妄信から「伝統や社会秩序より個人の理性や権利を重視」したのである。
しかし、彼らの「個人の理性や権利」は机上の理念に過ぎなかった。彼らは理念だけを頼りに、「伝統や社会秩序」という現実を見ずに突っ走ったのである。「一寸先は闇」なのに、「闇夜の暴走」では何かに躓(つまづ)いて倒れるのは当然だ。
自分の理性が万能ではないという常識を持つ人は、旧来の伝統や社会秩序には先人の長年の試行錯誤を通じた知恵が宿っていると考え、明らかに問題となった部分のみを少しづつ直していく。「伝統や社会秩序を重視する傾向があります」というのは、ここから来る。言わば、闇夜には手探りで一歩一歩、進んでいくという常識である。
これが保守主義の神髄であろう。イギリスの名誉革命が犠牲者を一人も出さずに、臣民の自由を拡大し得たのは、こういう健全な保守主義による。東書が「人権の歴史」で、イギリスの名誉革命に言及しなかったのは、このような健全な保守主義と、かつ国家が護る「国民の人権」を良しとしていないからであろう。
同じく「人権」と言っても、国家の保護なき人権は「絵に描いた餅」であり、フランス革命や共産革命のような「闇夜の暴走」では、逆に多くの犠牲者が出る。人権の歴史を学ぶなら、この2つの失敗は必須事項である。
お読みいただき有難うございます。