A. 慶長18年12月22日(1614.1.31)、江戸城で、大御所様(家康)の命を受けて、南禅寺金地院の僧・崇伝(すうでん)が、徹夜で準備し、「鶏明より曙に至って文成り、二十三日、将軍秀忠の御前に献上した」(「異国日記」)のでした。
将軍秀忠は、朱印を押して、「日本国中、諸人此の旨存ずべしとの御諚」として、直ちに公布されました。
原文は、難解な漢文で、かなりの長文ですので、キリシタンに直接関係のある部分を抜粋して、紹介いたしましょう。
● 乾爲父坤爲母、人生於其中間、三才於是定矣、夫日本者元是神国也・・・・ 神與佛其名異、而其趣一者、恰如合符節・・・・ 爰吉利支丹之徒党、適来於日本、非啻渡商船而通資財、叨欲弘邪法惑正宗、以改域中之政號作己有、是大禍之萌也、不可有不制矣、日本者神国佛国、而尊神敬佛・・・・ 彼伴天連徒党、皆反件政令、嫌疑神道、誹謗正法、残義損善、見有刑人、載欣載奔、自拝自礼、以是爲宗之本懐、非邪法何哉、実神敵佛敵也、急不禁、後世必有国家之患、殊司号令不制之、却蒙天譴矣・・・・ 早斥彼邪法、弥昌吾正法、世既雖及澆季、益神道佛法紹隆之善政也、一天四海宣承知、莫敢違失矣
慶長十八年龍集癸丑臘月日
御朱印
※(読み下し文)
乾(けん)は父と爲し、坤(こん)は母と爲す。人其の中間に生まる。三才是に於て定まる。夫れ日本は元是れ神国也。・・・・ 神と佛と其名異なりて、而して其趣一なるは、恰も符節を合するが如し。・・・・ 爰(ここ)に吉利支丹の徒党、適(たまたま)日本に来り、啻(ただ)に商船を渡して資財を通ずるのみに非ず、叨(むさぼ)りて邪法を弘め正宗を惑はさんと欲し、以て域中の政號を改めて己が有となさんとす。是れ大禍の萌(きざし)なり。制せずんばあるべからず。日本は神国佛国にして神を尊び佛を敬す。・・・・ 彼の伴天連の徒党、皆件(くだん)の政令に反し、神道を嫌疑し、正法を誹謗し、義を残(そこな)ひ善を損じ、刑人有るを見ては、載(すなわ)ち欣び載ち奔(はし)り、自ら拝し自ら礼し、是を以て宗の本懐と爲す。邪法に非ずして何ぞや。実に神敵佛敵なり。急ぎ禁ぜずんば、後世必ず国家の患(うれい)あらん。殊に号令を司って之を制せずんば、却て天譴(てんけん)を蒙らん。・・・・ 早く彼の邪法を斥け、弥(いよいよ)吾正法を昌んにせん。世既に澆季(ぎょうき・末の世)に及ぶと雖(いえど)も、益(ますます)神道佛法紹隆の善政也。一天四海宜しく承知すべし。敢へて違失する莫(なか)れ。
慶長十八年龍集癸丑(みずのとうし)臘月日
御朱印
この「大禁教令」は、勿論、加賀藩にも伝えられ、髙山右近たちは、26年間住み慣れ、お世話になった加賀の地を、追放されていくことになります。
※ 髙山右近の家族、冬の金沢を出立 (水戸成幸・画)
