あれから公園は見つからず、、
というかなぜ駅は以前と変わらないし、通りの風景もバッチリと覚えているのに、
身内と行ったあの公園だけが、そっくり見当たらないのだろう?
まるでその公園はこの世界線にはないかのように思えてくる。
今、僕は一睡もしていない為、
この駅の銭湯で休憩中です。
ここで僕が思うこと、、
おそらく僕は、
世界線B(病気な世界観)でのやるべき事、やりたい事、生活、生き方、昨日までに一周まわってやってしまったのだろう。
やり切った事により、
完全にこの世界線Bに違和感を"感じ切れた"のだろう。
感じ切れた事により、
"この世界線Aへのハッキリとした流れ"が、とうとう訪れているんだろう。
身内の声曰く、
身内の声に横入りして邪魔してる勢力があるらしく、
それで僕の解釈がたまに誤る時があるとの事、
前々回の悟りブログでも、誤って書いている箇所も垣間見れるらしいです。多少のズレみたいですが。。
例えば、
祖父母は、
世界線AにもBにも、"同時に"存在している。と、前々回の記事では書きましたが、
正確には、
世界線Aには存在していないようで、、
今日の身内の声が正しいのであれば、
世界線AとBがあるとしたら、
そのどちらかの世界線にしか、存在できないようです。
だけど、Aの中の更に多極化した中、そして、Bの中の更に多極化した中には、
AとBそれぞれに、何パターンも自分やあの人は存在しているみたいです。
なので、大きく、AとBに分けると、
世界線Aにいる身内の世界では、身内は生きていて、僕や僕の家族は行方不明で、
世界線Bにいる身内の世界では、身内は亡くなっていて、僕や僕の家族は行方不明ではない。
という事になります。
世界線Bの方に存在しているお金、人間関係、状況、仕事、、等、
それら世界線Bへの意識を"完全に"捨てられた時、
視界は、世界線Aへと"すり替わり(景色は同じだから分かりにくいが...)"、
世界線Aにいる人達や状況下、世界線Aにあるお金や物質や景色で生きられるようになるみたいです。
僕が今、そうなった場合、
世界線Aでは現在、行方不明になっている僕が"見つかり"、
世界線Bにいる僕は、なんらかの設定で、いなくなります。
いなくなり方は、死が全てではありません。
身内は世界線Bでは"死"という設定になってしまいましたが、
誰もが"死を通して離れる"訳ではありません!
転勤、留学、疎遠、離れる、捕まる、、などの設定で離れたりもします。
引き続き、
世界線Bから世界線Aへと、
すり替えていきたいと思います。