「マインドを変えるには、マインドを変えよ」の無限ループ | オズの魔法使いのコーチング「Et verbum caro factum est]

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故ルー・タイスの魂を受け継ぐ魔法使いの一人として、セルフコーチングの真髄を密かに伝授します

「認知科学に基づくコーチングを学んだ」とか何とか言う人が増殖中らしいです。そういう方々は様々な情報発信をなされてますので、コーチ様クライアント君の架空の対話もリアルに想像できそうです。

 

クライアント君
「コーチ様、ゴールを設定するとはどういうことでしょうか。ゴールを設定したと主張するだけでなく、実際にゴールに向かって動き出すにはどうすべきかの質問です。」
コーチ様
「それは汝のコンフォートゾーンをゴールの側にずらすのじゃ。さすればホメオスターシスの霊妙なる自律調整作用により、ゴールに向かって勝手に動き出すであろう。」
クライアント君
「うへー。なんという有難いお教えでしょうか。コンフォートゾーンをずらすことでホメオスターシスの自律調整作用が得られるのですね。どのようにすれば、コンフォートゾーンをずらせるのでしょうか。」
コーチ様
「うむ、それは自己イメージを変えて、エフィカシー(自己評価)の高い自己イメージを構築することじゃ。なぜならコンフォートゾーンは自己イメージが決めるからじゃ。」
クライアント君
「なるほど大変よく分かりました。有り難や有り難や。ところでどうすれば、自己イメージを変えることができるのでしょうか。」
コーチ様
「ゴールを設定することにより、エフィカシーの高い自己イメージは得られるのじゃ。」
クライアント君
「全く感嘆すべきお教えです。ならばゴールを設定するとはどういうことなのでしょうか」
コーチ様
「ゴールを設定するとは、コンフォートゾーンをずらすことじゃ。」
クライアント君
「してコンフォートゾーンをずらすとは。」
コーチ様
「自己イメージを変えることじゃ。」
クライアント君
「それは、つまり・・・。」
コーチ様
「ゴールを設定することじゃ。」
・・・以下無限ループに突入

 

この対話、なぜゆえ無限ループに突入したのでしょうか。
理由は簡単、トートロジー(同義語反復)であるからです。
ゴール・自己イメージ・コンフォートゾーン、これらの用語はどれもマインド(脳と心の働き)を記述するためのものです。「ゴールを設定する」「自己イメージを変える」「コンフォートゾーンをずらす」はいずれも、「マインドを変える」という趣旨を異なる言葉で表現しているだけです。
だから上記の対話は、「マインドを変えるには、マインドを変えろ」のトートロジーであり、無限ループに突入します。

 

マインドとは脳と心の働き、つまり働き(作用・機能)につけた名前です。決してマインドという思惟(心的)実体があるのではありません。
ということは、ゴール・自己イメージ・コンフォートゾーンといった思惟(心的)実体があるのではありません。

 

抽象度の高い脳の情報処理作用を「心」と呼んでいます。「心」という実体があるわけではありません。
生体の働きとしての様々な現象を「生命」と呼んでいます。「生命」という実体がある訳ではありません。
認知科学を含むファンクショナリズムのハードコアな世界観にあっては、働き(作用・機能)が全てです。

 

「認知科学に基づくコーチングを学んだ」とか何とか言っても、前提となる世界観を理解できずにキーワードを暗記するだけでは、ゴール・自己イメージ・コンフォートゾーンといった実体があるかのような話になってしまいます。
上記の無限ループはその例です。

 


ゴール・自己イメージ・コンフォートゾーンはマインドを観る視点

 

ゴール・自己イメージ・コンフォートゾーンは機能を記述する用語です。様々な用語があるのは、異なる視点から機能を観るためです。

 

マインドとは、今この瞬間の脳内情報処理のことです。
宇宙は瞬間瞬間(刹那)で新たに生み出される離散的な情報状態である」との仏教的宇宙観は、認知科学以降の世界観と合致します。

 

人間は、自分自身の情報処活動を理抽象化することで、情報処理自体を情報処理することができます。「一瞬前の判断・行動(情報処理)はどうだっただろう」と内省的に評価することです。内省的評価はもちろん脳内情報処理活動です。魂の働きとか何とかのオカルトではありません。

 

宇宙に同じ状況は二度とないので、同じ情報処理は有り得ません。それでも情報処理活動を抽象化することで、その傾向を記述することは出来ます。
記述するとは今この瞬間の脳内情報処理(認識作用)であり、抽象化された傾向が実在するわけでは全くありません。

 

身体反応を含む具体的な傾向を、分野別各論的に記述する視点がコンフォートゾーンです。身体反応を含む情報処理傾向は、分野ごとに「快適(コンフォート)とされるレベル」という記号により表現されます
分野別に表現された傾向を抽象化して、統合された人格の全体像として把握すると、自己イメージとなります。分野別の各傾向は、全体像のなかでバランスが保たれています
その自己イメージを保持したまま、時間座標を未来へ移動(これは時空を超える抽象化作業)した際に、選択し得る可能性世界がゴールです。

 

以上は視点の違いを明確化するために、具体的な情報処理から抽象度の上がる方向で提示しました。しかし瞬間毎になされる認知活動では、サンプルを集めて抽象化してゴールを決めるようなことはしません。サンプルの組み合わせパターンが無数にあり、抽象度を一つ上がるごとに計算量が爆発し、脳の情報処理が追いつかないからです。
可能性未来の選択が先にあり、その枠内で人格の全体像が規定され、その枠内での各論的な傾向の記号的表現があり、さらにその枠内で今この瞬間の情報処理(判断・行動)がなされます。
この関係を比喩的に表現したのが時間は未来から過去に流れる」です。

 

言いたいことは、ゴール・自己イメージ・コンフォートゾーンはマインドのダイナミズムを観る視点であるということです。

 

 


セルフコーチングの肝中の肝

 

ゴール・自己イメージ・コンフォートゾーンの視点の違いは、抽象度の違いであると分かりました。
ゴールとは抽象度の高い視点であり、情報量が少ないので時空を超えて俯瞰可能ではあるが、臨場感が低く漠然としか感じることができない
コンフォートゾーンは具体性の高い視点であり、情報量が多いので身体反応を含むほど臨場感が高いが、現在の働きに限定される。
自己イメーシはその中間ということになります。

 

この違いから重大な原則が導かれます。セルフコーチングの肝中の肝とも言うべき原則です。
ゴールの世界は想像できないが、ゴールの世界で持っているべき人格の全体像(自己イメージ)は想像できる」ということです。
人格の全体像が想像できれば、その具体的な記号的表現である現在持っているべきコンフォートゾーンは、必然的にリアルに決定されます。
換言すると、ゴールに臨場感は持ち得ないが、ゴールを前提とした現在のあるべき姿にはリアルな臨場感が持てるということです。
分かりやすい例えでは、天国(ゴール)は想像できないが、天国に入れる人格は想像でき、天国に入るために今なすべきことはリアルに分かるということです。

 

漠然としたゴールの世界を、言葉で表現することは全く不可能ではないが、相当困難です。簡単に言語化できるゴールは、他者からの洗脳誘導である可能性が高いです。

リアルな臨場感を持てる世界はゴールとは呼ぶに値せず、現在の延長に過ぎません。「ゴールの世界の臨場感を上げろ」とか何とか言う話があったら、説明として極めて不十分かつ不適切です。

 

それはともかく、「ゴールを前提とした現在のあるべき姿にリアルな臨場感」を持てればメデタシメデタシではありません。それはあるべきコンフォートゾーンを想像しただけです。想像だけで終わっては何にもなりません。

 

ゴールを前提としたあるべきコンフォートゾンを想像したら、今この瞬間に実際に機能しているマインドのコンフォートゾーンと比較する必要があります

人間にとってマインド(脳の働き)が全て。マインドから外れた世界は知り様がなく,コンフォートゾーンの外側は見えないからです
想像上のコンフォートゾーンとの比較しない限り、実際に機能しているコンフォートゾーンの問題点は決して見えません。全てが当たり前で「そういうもんだ」と認識されるからです。

 

問題点が見えない限り修正は不可能です。従来、当たり前であったことを問題として発見・認識することが、マインドを変える第一歩となります。「変えるべきマインド」の発見です。

このプロセスを省力して「マインドを変えた」と主張するだけで終わると、冒頭の無限ループに陥ります。
問題点を直視したうえで、前向きなフィードバックを行うことを、セルフトークのコントロールと言います。問題点を見なかったことにして、全てが順調であるかを主張することは、セルフトークのコントロールとは正反対の欺瞞です。

 

天国に入るために今なすべきことは分かったけど何もしない。その代わり善行をなしたと主張だけはする。そんな奴は閻魔大王の裁きを受けます。
問題点を発見しようとせず、つまりフィードバックも行わず、「コンフォートゾーンをずらした」「自己イメーシを変えた」「ゴールを設定した」と言葉で主張するだけの奴も、閻魔大王の裁きをうけ無限ループが待っています。