ショーの終盤。羽生くんが三つのプログラム(の短縮版?)を滑った後だったと思う。
会場は盛り上がった。楽しい時間だったと感じていたのに、すっと彼の表情が変わった。

トークが始まる。今日は熊本地震の日である、と。
会場のスクリーンにアップで映った顔。辛そうな。
それを見て、私、「この人、異常だ。」と思ってしまった。
あ、異常というと普通は悪い意味を伴ってしまうのでまずいか。普通ではない、これも悪い意味があるか。
とにかく、常人と違うと思ってしまったのだ。

胸の中から、リアルに辛さが湧き上がってきたかのような顔だった。
「この人は、東日本大震災の記憶が、胸の中でそのままにまだ存在するんじゃないだろうか。それがそのまま想起されているんじゃないだろうか。」
そう感じたのだ。

もう、あれから七年も経つのである。普通なら、記憶は風化していく。
鮮明に記憶を残しておきたいと強く願った人であっても、締め切った部屋の家具に埃が積もるように、記憶の色はどこか褪せていったりする。

しかし、羽生くんの表情からは生々しさを感じた。
胸の中にその時の記憶が、色あせることなくあるかのように。時間を飛び越えて、戻ってしまったかのように。



「幼い頃の自分が厳しい」と、平昌五輪の後、どこかで羽生選手が言っていた。
あのとき、思ったのである。「この人はひょっとして、忘れるという能力が弱いのか?」。
忘れるというのは問題があること、逆に覚えておくべきことを覚えていることは称賛されること、と、私たちの社会は普通そう捉えているけれど。
しかし実際には、辛いことを忘れたり、風化させたりすることによって、人は日常の営みを心やすく続けることが出来るのである。
忘れることは福音でもあるのだ。
ところが、羽生くんの場合、幼い頃の思いがいつまでも胸にある?記憶の幼い自分が、今も息づいている?
そんな風に思えたのだ。

同じように、震災の記憶もまた、今もリアルに胸の中にある。スクリーンに映った表情は、そんな感じに見えた。



そんな、ともすれば暗い思いに引きずり込まれかねないようなものでもあるだろう、震災の記憶。
この人は封じもせず、風化させようともしなかった。そしてむしろ想起する機会を「増やした」のである。こうやって「熊本地震」という言葉を、自分の過去を想起するキーワードにしてしまった。

うーん、そういうところ、常人ではないよなあ、やはり。普通なら想起する機会、増やさないぞ。類似点を見つけても理性を働かせて、感情の方は抑え目にする人が多いと思うんだけどな。
いい悪い、という話ではない。ただ、びっくりしたのだ。




暗く沈み込んでしまいかねないような胸の中の記憶。
その思いに引きずられまいとしたら、それは輝かしい記憶もまた、胸の中にたくさん置いておくのが一番、なのかな。

だから、あんなに勝利にがむしゃらに向かい、こうやってファンに対してもエネルギーを最大限使って極上の時間を作り上げようとしているのかもしれない。
キラキラした時間を集めずにはいられない、そういう生き方になってしまうのかも。

そんなことを感じてしまったのである。
むろん勝手な推測に過ぎない。全然違っているかもしれないけれど、そう感じた。

(ちなみに私が行ったのは二日目で、三日目だったらまた別の感想書いていたかもしれない。)