「明治天皇はすり替えられたニセモノだった」
という衝撃的な説を初めて耳にしたのは、たぶん1990年代だった。
世間に広く注目された「明治天皇すり替え説」を公表したのは、鹿島昇による以下の出版物だったと思う。
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784915157844
私は20年くらい前から、明治天皇すり替え説についてブログを書き始めたが、10年くらい前まで、与太記事扱いを受け続け、ほとんど誰も私のブログを信用しなかった。
それは江沢民による法輪功弾圧(臓器強奪)と同じくらいの、ありえない妄想説と見なされていた。それだけ、天皇の権威を盲信する人が多かったのだ。
しかし、今は違う。明治天皇がニセモノであることを知った人は膨大な数に上る。ネット上には、すり替え説の解説がゴマンと出ている。
鹿島昇に先だって、幕末の天皇家に起きた不穏な事件を明らかにしたのは、司馬遼太郎だったと記憶している。1970年代のことだが、古すぎて、文献や書名などが分からなくなってしまった。「幕末」という文庫本かと思ったが、含まれていなかった。
確実な記憶とは言えないが、孝明天皇の愛人になっていたのが、岩倉具視の姉だったが、その手引きで(つまり首謀者が岩倉具視だった)、長州の暗殺専門、秘密工作員だった伊藤俊輔(伊藤博文)、志道聞多(井上馨)の二名が、岩倉姉の屋敷を訪れていた孝明天皇を厠で下から肛門めがけて槍を突き入れ、孝明は直腸を傷つけられ、三日三晩苦しみ抜いて死んだ。
1867年1月30日のことだ。享年35歳。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87
当時、妾の屋敷とはいえ、天皇の使う厠はボットン式ではなく、便座の下に小さな部屋が設けられ、箱に入れた白砂が敷かれていたので、容易に侵入することができた。
なぜ、肛門を狙ったのかというと、暗殺の事実を隠すため、外傷を見えにくくする意図があった。よって、典医は、死因が分からず、梅毒や天然痘のせいにしたりした。
https://sengoku-his.com/1515#:~:text=%E8%A6%81%E3%81%AF%E3%80%8C%E6%98%8E%E6%B2%BB%E7%B6%AD%E6%96%B0%E3%82%92,%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E8%AA%AC%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82
しかし、腸を破壊された苦しみは、想像に絶するもので、後に、即位した大室明治天皇の寝所に毎晩、幽霊となって憤怒の形相(鍾馗の姿)で現れ、大室が恐怖におののいたと、侍従だった中山忠能の日記に記録されている。
なお孝明の暗殺には、中山忠能も首謀者として関わっているとの声もある。それは、孝明が忠能を嫌って存命中は遠ざけていたからだ。
また、そうでなければ、明治天皇の侍従に就任する理由もない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E5%BF%A0%E5%85%89
孝明天皇には数名の子がいて、天皇を継ぐ資格は、祐宮という子にあった。この子は、中山忠能の娘、中山慶子が1852年に産んだ男子で、中山忠能にとっては、可愛い孫だった。
子供の頃から、蹴鞠の名手で、長じても五尺(1m50センチ程度)の小柄ですばしっこい子供だった。幼くして天然痘に罹患し、あばた面だったといわれる。
だが、父親の孝明天皇暗殺後、祐宮も行方不明となっている。
そして1867年、祐宮は明治天皇に即位したことになっている。しかし、小柄で華奢な体格だったはずの祐宮は、なぜか六尺豊かな偉丈夫に変貌していた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87
本物の祐宮と、祐宮=睦仁を名乗る明治天皇の違いは以下の通り。
http://www.teikoku-denmo.jp/history/honbun/nanboku4.html
【即位前(睦仁親王時代)→ 即位後(明治天皇時代)】
睦仁親王は疱瘡(天然痘)をわずらった。疱瘡の後遺症として、顔面に「あばた」が残った。
→ 明治天皇の「御真影」(これは「写真」ではなく、キヨソーネが描いた「肖像画」)に描かれた顔に「あばた」は無い。又、実際の顔にも「あばた」は無かった。
元治元年(1864)年7月の「禁門の変」の際、砲声と女官達の悲鳴に驚いた睦仁親王(当時13才)は、「失神」した。
→ 明治天皇は威風堂々、馬上から近衛兵を閲兵し、自ら大声で号令した。
睦仁親王は幼少より「虚弱体質」で、毎年風邪をこじらせていた。又、16才になっても、宮中で女官と一緒に「蹴鞠」にいそしんでいた。
→ 体重24貫(約90Kg)の巨漢で、側近の者(山岡鉄舟や西郷隆盛)と相撲をし、相手を投げ飛ばしたと言う。
睦仁親王は16才になっても、書は「金釘流」、つまりは「下手」であった。又、政務にも無関心であった。
→ 明治天皇は、書が「達筆」であった。又、学問にも熱心であり、教養豊かであった。
即位前の睦仁親王に、「乗馬」の記録は残っていない。つまり、馬には乗れなかった。 → 明治天皇は、鳥羽伏見の戦の際、馬上豊かに閲兵した。
******************************************************
引用以上
実は、私も過去20年にわたって、数十編の明治天皇=大室寅之祐に関するブログを書いたのだが、知らないうちに多くが無断削除され、ヤフーがブログを廃止してしまったので、復活できないでいる。
いくつか残っているものを再掲する。
天皇の歴史 その1 2018年05月01日
http://hirukawamura.livedoor.blog/archives/5828318.html
天皇の歴史 その2 田布施 2018年05月02日
http://hirukawamura.livedoor.blog/archives/5828319.html
天皇誕生日に、天皇制について 2018年12月23日
http://hirukawamura.livedoor.blog/archives/5828077.html
鬼塚英昭氏の動画は、もっとも本質的で詳細に、大室寅之祐=明治天皇の本質を暴露している。
元々、YouTubeにたくさんの動画が保存してあったものが、今探すと、大半が削除されてしまっていることが分かった。しかしニコニコにコピーしていただいた方がいるようだ。
https://www.nicovideo.jp/tag/%E9%AC%BC%E5%A1%9A%E8%8B%B1%E6%98%AD
[ 日本の真相 ] 鬼塚英昭
https://www.youtube.com/watch?v=5u5MC34l0LU&ab_channel=necoicon531
上の動画のなかで、鬼塚氏は、明治天皇=大室寅之祐が登場してくる伏線として、「歴史的な朝鮮部落だった田布施」の特異性を指摘している。
前回のブログで、私は田布施について、「秀吉が連れ帰った朝鮮陶工の地」と説明したが、鬼塚氏は、瀬戸内海賊として名が知られた大内氏は、李朝と深い関係を持った朝鮮系の一族であり、田布施(光市)は、朝鮮李朝と関係した土地であったかのように説明している。
だとすれば、前回、岸信介の婿入先の曾祖父である、岸要蔵=李要蔵が大室寅之祐の祖父だったと書いたのだが、李朝崩壊時に平安北道から移住してきた李氏両班というより、江戸時代から、すでに李氏と深い関係を持っていた田布施に、明治維新よりも早い時期に移住していた可能性がある。
そうだとすれば、すべての情報に整合性が成立するのだ。
だが、この歴史的事実を詳しく調べるのは困難で、何が真実なのかは、まだ今後の課題である。安倍政権になって、ネット上にあった岸家のルーツ情報が片っ端から削除されたのだ。
鬼塚氏が指摘した、明治天皇が孝明天皇の実子、祐宮とは別人だった証拠もたくさんある。たぶん、別人である状況証拠は数百に上り、その真実性は絶対的なものだ。
思いつくままに挙げてみよう。
① そもそも、孝明天皇は北朝系譜であり、南朝は敵対勢力だった。ところが、明治天皇が即位した途端、南朝正統論を主張するようになった。
理由は、明治新政府が、維新の思想的土台となった平田篤胤の国学解釈=南朝正統説をそのまま適用したからだ。
朝敵だったはずの楠木正成像が、突然、皇居前に出現したのも、このときだ。
② 祐宮は、身長5尺、あばた面で、蹴鞠の名人、色白で右利きだった記録があるが、即位後の睦仁は、身長6尺、真っ黒に日焼けした偉丈夫で、左利きだった。顔にあばたは記録されていない。威風堂々として、まさに明治天皇にふさわしい容姿だったとされる。
何せ、侍従だった剣豪、山岡鉄舟や西郷隆盛と相撲を取って互角に渡り合ったと記録されている。
そして、西郷から「やんちゃすると元の身分に戻す」と脅されている。
元の身分、大室寅之祐は、長州騎兵隊力士隊の有力隊員だった。
③ 明治天皇に即位してから、維新政府は「遷都」を行い、都を京都から東京に移した。理由は、京都だと、ほとんどの公家が、本当の祐宮=睦仁を身近に知っていたからだ。
側室の柳原愛子が1879年に産んだ、後の大正帝、嘉仁=明宮について、明治天皇は、一度も面会していない。また、自分の母であるはずの中山慶子とも、一度も面会していない。本当の肉親ならありえないことだ。
柳原愛子の子=嘉仁は、先天性の虚弱体質で、先天性梅毒とも噂され、「白痴」ともいわれた。
大正帝の不可解なご乱行については、いくつかの書籍が出版されている。
http://hirukawamura.livedoor.blog/archives/5854328.html
④ 明治天皇は、柳原愛子を遠ざけていた。また、他の女官たちも全部で十数名の子を産んだが嘉仁以外、全員が子供のうちに死んでしまっている。
これは、もしかしたら、皇室内で、明治帝の本当の子が殺害された可能性も示されている。
嘉仁は小柄で、遺伝的欠陥があった。もし本当に、明治帝=大室寅之祐の子であったなら、はるかに健全で、威風のある立派な子供が生まれていたはずだ。これは、明治帝の子供を天皇に就任させないような大きな力が働いていたのだと私は思う。
嘉仁の本当の父は、実は、行方不明になった本当の祐宮=睦仁ではなかったかと私は思う。
そもそも侍従である中山忠能は、明治天皇の生母とされた中山慶子の実父なのだ。忠能は、孝明天皇暗殺の一味だった。暗殺後、本物の祐宮(実孫)が行方不明になったのだが、忠能が可愛い孫を殺すことは考えにくく、どこかに匿って、柳原愛子との間に大正帝を産ませたと考えるべきではないだろうか?
なぜ大室寅之祐の実子が忌避されたのか? それは、大室が岸要蔵(岸信介の曾祖父)の孫であったことが、西郷隆盛や大久保利通ら関係者に知られたからではないのか?
つまり、李朝両班の血が皇室に入ることを忌避したのではないだろうか?
だから、明治帝の子は殺され、没後、本当の祐宮との間に生まれた大正帝が即位したと考えることに蓋然性が強い。
まだ、書きたいことはたくさんあるが、明治維新前後の天皇家の事情は、上にリンクした鬼塚氏の「日本の真相」に語り尽くされていると思う。
この動画を知ってから、すでに十数年が経つが、内容の間違いに気づいたことは皆無であり、すべて正しいと私は思っている。
長くなりすぎたので、いったん停止する。
テーマ:ブログ