数学とはなんですか 8 数学は自然科学ではない | texas-no-kumagusuのブログ

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トミオ・ペトロスキー(Tomio Petrosky、日本名:山越富夫)のブログです。

あらゆる学問には、それぞれにそれ固有の文化があります。そして文化の違いとは価値観の違いのことです。したがって、違った文化の中に居ると自分の持っている価値観が相手に通じず、場違いなところに居る気になってくるものです。数学の世界の内部で物を考えている方にも、世の中にはこんなわけの分からないことを言っている奴らもいるのかと認識して頂けばそれで良いのです。その価値観の違いや議論のすれ違いが、この世の中を多様で豊かな物にしているのですから。

 

>やはり、軽く話すると、数学は自然科学であり、、、

 

texas-no-kumagusuのブログ-カント
イマヌエル・カント

 
この認識は、前にも述べましがカントの発見により、最早否定されております。カントは「真偽」に付いて分析し、それには2種類の完全に違った物があることを 発見しました。これは「数学とはなんですか?」に関する認識として決定的に重要な発見ですので、そのことを紹介します。『数学とはなんですか 4 』でも触れておきましたが、カントは「真偽」には「分析的真偽」と「綜合的真偽」があることに気が付きました。 分析的真偽とは、例えば、

「もし、『A ならば B である』が真ならば、『B でなければ A でない』も真である」と言う命題で扱う真偽などです。この命題の真偽は、ここで述べられている言葉の分析だけで真偽が判定できます。別な言い方をすると、実際に実験や観測の分析をしなくても、言葉の定義を分析すればその「真偽」が判定できるような真偽のことです。したがって、この種の真偽は「言葉」の構造を論じることによって判定できる真偽ですので、このような真偽を扱う学問は人間を扱う学問、すなわち人文科学として分類されます。

 

それに対して、「綜合的真偽」とは、例えば

 

「私が手に持っている石を離すと、その石は下に落ちる」

 

という命題で扱う真偽などです。この命題は、ここで述べられている言葉の定義をどのように分析してもその真偽を判定することが出来ません。事実、人工衛星の中で手を離しても石は落ちないからです。従って、総合的真偽の判定には実験や観測の分析が不可欠です。

 

数学で扱う真偽は「分析的真偽」ですが、自然科学で扱う真偽とは全て「綜合的真偽」です。したがっ て、数学は人文科学であり自然科学ではありません。ですから、数学で扱う「真理」と自然科学で扱う「真理」とは全然違った物で、それを同列に扱う訳には行きません。さらに、あらゆる学問や芸術がそれぞれの「真理」を追求しているからと言って、そこで言う「真理」と「美」の関係に関しても同じようなことを言っていると言う訳にも行きません。

哲学者のこのカントの真偽の分類に関して、その後に発展が為されていると言うことを聞きかじったことがありますが、それがどう発展しようが、数学が自然科学ではないと言うことに関しては、その見解が変わることは無いと思います。

数学好きな方がたまたま物理学のテーマを論じる時に、この真偽の違いの認識を理解していないことがあり、その理論で提示された言葉の定義とその言葉の間の関係を緻密に分析するだけで何か本質的な発見が出来ると誤解してしまう方もいるようです。その例は、 量子力学の解釈に関する「観測の理論」でしばしば見かけます。ここでは詳しく紹介しませんが、「観測の理論」の主張は、量子力学の基本の法則であるシュ レーディンガー方程式とは完全に独立した主張です。したがって、現在の物理学では、シュレーディンガー方程式という物理学の基本原理と、それとは独立な 「観測の理論」の二元論で成り立っているように見えます。

ところが、物理学者とは、

「この宇宙のあらゆる現象が、物理学の基本原理によって統一的に理解できるはずだ」

と言う未だに誰も証明したことのないことを信じている、言わば物理教を信じている信者このことであり、多分人類の中でも、際立って異様な連中のことを言いま す。ですから、物理学者にとって二元論的な認識は許せないのです。そこで、現在までにこの「観測 の理論」を何とか統一原理の中に組み込めないものか、大変な努力が為されております。ところが、この「観測の理論」は物理学者で無くて数学者であったあのフォン・ノイマン神が宣いはじめた理論であると言う歴史的な経緯も在って、この問題は多くの場合数学者達も自分のテーマに選んできました。そして、その方達はフォン・ノイマン神の提示した言葉の分析をいじくりまわし、解釈を提案するだけでこの問題が解決するのではないかと考えているような節があります。 しかし、解釈だけではどうにもならない証拠に、この問題が提起されてから約80年が経過していますが、「観測の理論」にはまだ決定的な進歩が無いと言う認 識を大方の物理学者は持っております。これなどは、数学者には「自然科学とはなにか」が良く判っていないからかなとい言う、またまた、数学者には迷惑な偏見を私は持っています。

物理学は、統一原理にこだわると言う点で、他の自然科学や工学とは全然違った世界観を持っています。 ところが、応用数学として自然現象や工学や経済学などを論じる数学者は、原理よりもその現象その物に興味を持つと言う、工学者特有な物の見方をしますので、同じ現象を論じていても、物理学者の物の見方とは全然違う印象を私は持っています。

蛇足になりますが、カントの真偽の分類についての興味ある応用を紹介します。これは大分昔に読んだ哲学史の本に書いてあったことです。カントはこの分類を、 その時代までにバチカンで公認されていた十幾つかの神の存在の証明に応用したそうです。その証明によって語られている真偽は、それが分析的真偽を証明して いるのか、あるいは綜合的真偽を証明しているのかと言う分析です。 カントは、その公認されている証明で論じられている真偽はすべて分析的真偽であったことを示したそうです。別な言い方をすると、「神とは」という定義を先ず明確にして、その言葉の解釈だけで論じられる真偽を語っていたのだそうです。また、別な言い方をすると、この自然界におられるかもしれない神に付いては 何も語っていなかったと言う結論です。