「天使は本来的に残酷なもの」
何故でしょうか?
優しい看護師さんを、
「白衣の天使」と言ったりします。
自分の犠牲を顧みず、何かしてくれた優しい人を、
「天使のような人」と言います。
愛情、慈悲、それらを惜しみなく人間にかける存在、それが天使であると思われています。
では逆に質問です。
あなたはどうして、天使はそういうものだと思われますか?
何の理由でそんなに優しいのですか?
どうして天使が人間に優しくしなくてはいけないのですか?
だって……。
天使だから。
駄目です。答えになっていません。
なんで噛むのですか?犬だから。
なんで吠えるのですか?ライオンだから。
そのくらい稚拙な答えです。
確かに、結果として人間に優しくするときもあります。
しかし、人間に優しくすることが天使の使命ではないのです。
考えてみてください。
お腹が空いたから何か美味しい物でも届けて!
「ハイハイただいま」。
お金持ちになりたいよ、今すぐ億万長者にして!
「ハイハイ今すぐ」。
今度テストでいい点を取りたいけど勉強はイヤだなあ。
「ハイハイお任せあれ」。
こんなことをしていれば確実に人間は駄目になるではありませんか。
少し前の記事にも書きました。
「疲れた時は天使ラファエルのヒーリングパワーをもらうために彼を呼び出してみましょう」
こんな考え。
通用しません。
天使はその文字のとおり、「天」の「使い」です。
天の使いがどうして、一個人の疲労回復のために、わざわざ天から呼ばれなければいけないのでしょう。天にはたくさん仕事もあるのです。重要な責務を多くの天使は抱えているのです。
今一度注意しておきますが、こういう召喚法で現れる天使は、天使ではありません。低級霊です。
天使の力を個人の都合のために用いようとする者には、なにも現れないか(プラセボ効果)、それ相応の低俗な霊者(小悪魔)しか訪れないのです。
人間を愛して、顧みたいと思っていらっしゃるのは、スピリチュアルの頂点にいらっしゃる方です。
ここでは便宜上「神」と呼びます。
神がそうお考えだから、その使いである天使は、それぞれの任務に応じて人間に優しくしているのであって、
天使は、人間を猫かわいがりしてあげたいと思っている存在ではありません。
むしろ、
天使は、どちらかと言うと人間が嫌いなのだと言えば、あなたは驚くかもしれません。
想像してみてください。
あなたは、とても大好きで、恩義がある方に、犬を預かっています。
その犬を大切にしてね、面倒を見てあげてね、そうお願いされています。
だから、あなたはその犬の面倒を一生懸命にみるのですが、
その犬が言うことを聞かない。
あなたが可愛がるのでいい気になっている。
いくらしつけても甘ったれたバカ犬。
しまいに、その犬の面倒を見る事を依頼した、あなたの大切な人に吠えついたり、噛みついたりする。
頭に来ませんか?
大切な方が神、あなたが天使、犬が人間の立場なのだと言えばお分かりになるでしょうか?
考えてみてください。
あなたの最も大切な方を無視し、軽視し、都合よくあなたの力だけを当てにして、何の根拠もなく何でも言うことを聞いてくれる、愛してもらえる、優しくしてもらえる、だってあなたは天使だもんね。そういう存在だよね、それが当たり前だよね。
そうあなたを決めてかかっている者を、あなたは、愛せますか?
もっとはっきり言ってしまえば、
神が愛しているから大切にしているけど、こんな連中!
天使の多くは、実はこんな気持ちの方が人間に対しては近いのです。
聖書をお持ちの方は、機会を設けて確かめてみてください。
天使が人間になにかの慈愛を施したことより、断罪した出来事の方が多いことに気づくでしょう。
もちろん、天使は、断罪が楽しいわけではありません。
しかし、
天使たちは何にもまして神を愛しているのです。
自分の事ばかりに夢中になり、都合の良い時にしか神を見もしない人間たちを断罪するのは当然だ!
そうした気持ちも、少なからず持っていることがあるのをお忘れなきよう!
天使が行動する時は、その動機はいたって簡単なのです。
神が望まれるか、否か。
人間の善の動機は、細分化すると非常に莫大になりますか、おおざっぱに上げるとこうなります。
好きか、嫌いか。
義務か、自由か。
正しいか、間違いか。
しかし天使の行動基準は至極単純です。
神が望まれるか否か。なのです。
天使たちは、神を愛すればこそ、
神の義が行われていないと感じるだけで怒り狂い、残酷な鉄槌をさえ、喜びに満ちてふるい落とせるのです。
それこそが、天使だと言えるのです。
神が望まれる事であれば、どんな残虐な事でも喜びを持って行えるのが天使です。
ですから、天使は本来的に残虐なものであると言えるのです。