今年も9月22日が過ぎた。1980年のイラン・イラク戦争の開戦記念日だ。イラクの侵攻が始まった時、イランは革命で混乱しているので、戦争はイラクの圧勝で短期間で終わるだろうとの見方が大半だった。イラクによるイランの産油地帯の併合とイランの分裂をイギリスのエコノミスト誌が予想していたのを鮮明に覚えている。侵略してきたイラク軍の進撃を止めたのは、人々の犠牲をいとわぬ抵抗精神だった。

国境地帯の都市ホッラムシャフルは激しい抵抗の後イラクに占領された。ホッラムシャフルは歓びの街という意味だ。イラン政府は、市民の抵抗を讃えて占領下の都市名をフーニンシャフルと変えた。血の街と言う意味だ。市民の流した血によってイラク軍の進撃が止まり、戦争は長期戦になった。

その後イランの反撃が始まる。奪われた領土を取り返すために、子供たちを動員して、イラクが埋めた地雷の防衛ラインに向かって歩かせた。多くが地雷を踏み殉教した。子供たちの首には鍵が掛けられていた。殉教すれば天国の門が開かれる。鍵が、その門を開くのだと子供たちは教えられていた。将来のある子供たちではなく、先の短い自分たちが行こうと高齢者が地雷原に向かった例もあった。体で地雷を爆発させた殉教者の後を兵士が突入して領土を奪還した。国際的には批判を受けた戦術だった。

アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、ドイツなどの大国が供与した最新兵器と化学兵器で武装したイラクのフセインの軍隊に対しての、追い詰められ孤立したイラン国民の必死の戦いの姿だった。

イランがフーニンシャフルを奪い返すと、血の街という名前は再びホッラムシャフル歓びの街に戻された。筆者は戦争末期の1988年夏にホッラムシャフルを訪れた。無傷の建物は一軒も残っていなかった。双方の攻防で、そして撤退前のイラク軍による徹底した破壊の結果だった。

その後イラクに行って、侵略軍の兵士となっていたイラク人の多くも、家族をフセイン政権に人質に取られており、戦わざるを得ない状況だったと知った。戦争には善人も悪人もなく、犠牲者だけが存在する。

結局、この戦争は8年もの長きにわたって続き、双方の痛み分けの形で終わり、イランの分裂は起こらなかった。「専門家」の予想は全てハズレだった。研究者として謙虚にさせられる結果だ。イランは、まさに預言者の墓場だ。

また、これだけの犠牲を払った国民に対してイラン・イスラム共和国は十分にむくいて来ただろうか。開戦記念日を迎えると、いつも、この疑問が湧きおこる。

-了-