内閣府による選択的夫婦別姓についての調査結果が平成30年2月に発表され,過去の調査で最高の40%を超える方々が選択的夫婦別姓に賛成をしている結果が出たのですが,その結果を踏まえた法務大臣の意見は,「未だに国民の意見は多様に分かれているので,法改正は慎重に検討したい。」という趣旨のものでした。
「夫婦別姓を選べる『選択的夫婦別姓制度』の導入を容認すると答えた人が4割を超えて過去最高となった内閣府の世論調査について,法相は2月13日の閣議後会見で『国民の意見が大きく分かれている状況であることも事実だ』などと述べ、制度導入には慎重な姿勢を示した。
2月10日に発表された世論調査は3択で,選択的夫婦別姓制度の導入を容認42・5%、導入しなくてもよい(不要)29・3%,『同じ姓を名乗るべきだが,旧姓の通称使用を認める』(旧姓の通称使用)24・4%だった。
法相は容認が前回35・5%を7ポイント上回ったことを挙げる一方,『反対(不要)と旧姓の通称使用をあわせると53・7%』と指摘。制度導入について『調査結果をきめこまかく分析し,引き続き国民の意見を幅広く聞き,国会の議論の推移をよく注視しながら,慎重に対応を検討していきたい』と述べた。」
ここで法相は,「反対(不要)と旧姓の通称使用をあわせると53.7%」と指摘した,とされていますが,それを合計するのは合理的ではない,と私は思います。
なぜならば,「選択的夫婦別姓制度の導入を容認」の42.5%の方が賛成しているのは,いわゆる民法上の選択的夫婦別姓を実現する法改正であり,「旧姓の通称使用を認める」の24.4%の方が賛成されているのは,旧姓の通称使用に法的根拠を与える,という法改正であって,両方ともが,いわゆる選択的夫婦別姓を認める法改正を認めることに違いはないからです(ちなみに,新しい夫婦別姓訴訟(東京地裁)において原告らが主張する法改正は,戸籍法に旧姓を戸籍法上の氏(呼称上の氏)として称する制度を認めるべきである,というものであり,それは旧姓の通称使用に法的根拠を与える,という法改正に該当します)。
すると,上の記事でも引用されている内閣府の調査結果の数字を比較する場合には,「選択的夫婦別姓制度の導入を容認」の42.5%と,「旧姓の通称使用を認める」の24.4%を合計した66.9%と,選択的夫婦別姓制度の導入を不要とした29.3%とを比較しなければならないはずだと思います。そして,66.9%と,29.3%を比較すれば,選択的夫婦別姓の法改正を容認している方々が圧倒的に多数であることは明白だと思います。
数学に関する興味深いエピソードをたくさん紹介してくださることで著名な数学者の桜井進さんが,音楽家の坂口博樹さんと共に著された御本『音楽と数学との交差』(大月書店,2011年)には,「数」と「数字」にまつわる,次のようなお話が書かれています(『同書』2頁を要約)。
「数字は『数』を表すためにある人間の表現方法なのです。表現ですから,そこには主観が入りやすいと言えます。つまり,『数字は客観的だから,そこから得られる回答も客観的だ』と思い込んでいると,実はそれは主観で操作された数字であることがあるのです。」
この文章を踏まえて,私なりの表現をさせていただければ,「数字」とは人間が編み出した道具(ツール)にすぎない,ということです。数字とは,それ自体が自然の中に存在しているわけではなく,あくまでも人間社会を営む上で必要かつ便利な存在として,人間自身が編み出した道具なのです。
そして,人はその「どのような人ならば統治者としてふさわしいのか」という哲学的な問いを追い求めた長い歴史の中で,とうとう「この世には完全な人間は存在しないのだ」という,とても悲しい現実に気付いたのです。でも人は,自分達が決して完全ではないことを認識しながら,それでもこの社会をより良いものにしたいと考えて,知恵を編み出し続けてきたことになります。
数字もそうです。それは,決して完全ではない私達人間が編み出した道具(ツール)です。それを使うのも人間。評価するのも人間です。その数字に表れている社会的因子を,人々の心の中の羅針盤の指し示す方向を,決して読み誤ってはならないと思います。その数字に表れている正義の向かうべき方向に,社会を進めていくべきだと思っています。