最後の予科練生・戸張礼記さん証言/知られざる予科練

 

 

今日は、中央公民館で阿見観光ガイドの研修講演会があり参加しました。最後の予科練生・戸張礼記さんは阿見町生まれで、1928年(昭和3年)生まれの94才ということです。年齢は高いですが、かくしゃくとした身のこなしで、記憶力もしっかりとしています。

 

 

 

戸張さんは、旧制土浦中学校(現在の土浦第一高等学校)に昭和16年4月に入学しました。入学したその年の12月に、日本軍がハワイの真珠湾を奇襲攻撃するとともに英領マレー半島への進攻を開始し太平洋戦争が始まりました。

 

戸張さんの小学校時代の写真を見ると、着物で通学した人も多く履物は下駄でした。また、中学校入学式の写真を見ると全員が国民服でゲートルを巻いて、新兵の服装だったようです。時代を映す風景だったということでしょう。

 

戸張さんの予科練時代の証言は、概略以下の通りでした。

「卒業後、予科練には昭和19年6月に入隊し、甲種第14期(二次)飛行予科練に入隊」

「予科練生時代の思い出は、バッターの洗礼があり訓練は厳しかった。精神注入バット。こんな調子でやっているので、正直帰りたくなった。「憎しとて叩くにあらず、竹の雪」。海軍精神注入棒」

 

 

「釣り床。相撲、負け残り戦、勝つまでやめられない。水泳。遠泳。飛び込み。軍艦の弦側の高さより飛び込む。5メートル。カッター。1万メートル。負けると総員バッター」

「無線通信。モールス信号。1分間に80字を送受信する。これを覚えないと艦艇の通信員として乗艦できない」

「決戦の大空へ。主題歌「若鷲の歌」。これは全国に拡がって、予科練に入隊していった」

「1944年三沢の海軍航空隊に転属、その後、大湊石持海岸の山林にテントを張って終戦を迎えた、下北半島、津軽海峡」

 

戸張さんは、さらに下記のような証言をしていました。

「こういう機会を待っていた。この3年間、コロナの影響で機会がなかった。ブランクは大きい。あと残り少ない人生なので、焦っている。こういう機会を多くやりたいと思っている。なんでも協力するので、呼んで欲しい」

「予科練を知らない人が多くなってきた。学校では教えない。体験者は語らない。入試に出ないから戦争は勉強しない。戦争を知らない子供の時代」

「今では知られざる予科練になってしまった。入隊者は24万人。戦没者は殉死も含めて1万9千人。予科練生の真情「本当の心」を伝えたい」

「14期後期は(ニ次)20年3月までが土浦海軍航空隊、20年4月から三沢海軍航空隊に、掩体壕作りを行なった。7月から終戦の8月まで大湊海兵団・土龍(モグラ)作戦特別陸戦隊・石持で対戦車訓練。土浦海軍航空隊は米軍艦載機の攻撃を激しく受けた。これは、戦後知ったのだが高射砲で撃ち落としたのが友軍機だったということもあった」

「玉音放送は雑音が大きくて、よく聞こえなかった。正直、嬉しかった」

「平和を護ろう。この3年間いろいろと考えてきた。令和の少年たちへ贈る言葉。命より大切な事・・・それは道徳ではないかと、問いかけた人がいた。仁・・愛情、他への愛情、思いやりを伝えたい」

 

戸張さんとの質疑は以下の通りでした。

0さん:平和はつくるものというフレーズがあったが、護るものですか。

戸張さん:そうですねえ。自ら護るということにならざるを得ないご時世ですね。災害、自然災害といい、人災の最大のものである戦争であり、護る必要があると思わざるを得ない。戦争はやめられると思うが、やめられない現実がある。考え続けるしかないのではないか。宿題になっている。

 

Mさん:甲種第14期生に入学した当時の給料はいかほどだったか?

戸張さん:記録によると四十円くらいだったか。終戦になった時には6百円もらった記憶がある。16歳の時だった。東京に行った時に、財布をスられた記憶がある。

 

Mさん:食事はどんなものだったのか?

戸張さん:同期生で全ての食事に記録「海辺の食卓」を書き残したものがいた。それによると、基本的には一汁一菜だったが、汁物が多かった。たまに豚汁が出た。美味しかった。入隊してから太った。19年6月に入隊して9月ごろまではよかったが、10月ごろからはだいぶ落ちてきたような感じだった。コウリャン飯がほとんどだった。白米・・当時は銀シャリと言ったが、これが出た時は美味しかった。国民の一般家庭よりは良かったと言われている。

 

Aさん:最初の特攻隊の中野磐井さんが生まれた原町の出身で、こだわりがある。教育された場所は、現在の霞ヶ浦高校があるあたりか?

戸張さん:訓練の場所は霞ヶ浦高校のあたりで、霞ヶ浦高校の体育館のところにあった兵舎の中の16兵舎に入っていた。東郷平八郎が三笠で指揮を取った艦上の写真にあるようにハンモックは銃弾を防ぐ防護の役割を果たすものだった。

 

Kさん:戦後長く平和の時代を生きてきて考えが変わったことはあるか。

戸張さん:終戦で帰ってきたら、お前らが頑張らなかったので戦争に負けた、というように言われたことがあった。それ以来、あまり戦争のことは口にしなかった。しかし、それではダメだと思い直して、話をするようになった。

 

Nさん:戦争の経験の中で長く残すべきことは何か。

戸張さん:知られざる予科練生を語り続けようと考えたのは、この経験を永く残すべきだと思ったことだ。満蒙開拓で最も多くの開拓民を出した長野県阿智村のようなことを考えると、戦争には犠牲と侵略性が合わさっている。どちらも考えなければならないと思う。歴史は勝者により編まれるので、歴史を考える上では警戒する必要がある。ガイドする上でも気をつけなければならないと思う。