「小さき声のカノン」(鎌仲ひとみ監督、3月公開)という素晴らしいドキュメンタリー映画を見た。福島二本松での311から直近までの実録だ。ラストに感動的なNUUのアカペラ「うまれてきたから」がエンディングとして流れる。涙を流して聴きながら、「なぜ、日本の歌はハーモニーを必要としないのだろう?」と考えこんでしまった。別にNUUの女性ソロが悪いというわけではない。ただ映画が「孤立ではなく、見知らぬ人々が関係性の和音を構築して生きていく」内容だったので、ふと脳裏をかすめたのだ。1番はソロ、2番は2声か3声ならもっとよかっただろうな・・・。
 日本の音楽に和音の歴史はない。雅楽にも厳密な意味での(数学的な3度上、5度上のような)和音は一切存在しない。西洋では教会音楽が源流だったため、神の威厳を保つためにグレゴリオ聖歌に代表される異なる高低音を重ねて歌う、ハーモニーの原型が古くからあった。ルネサンスを経てバッハが西洋近代音楽の様式(対位法、調性)を完成させた。島国で鎖国を敷いていた日本に西洋音楽が本格的に入るのは黒船到来の明治維新以降だ。
和音を完成させるには音程が等分に正確な西洋楽器、たとえば鍵盤楽器などが必要だ。三味線や笙、ひちりき、尺八等邦楽器では数学的な構築はし難い。明治以降SP盤と蓄音機で欧米のクラシック音楽は入っていたものの、日本の大衆が西洋交響楽団演奏をナマで体感したのは、戦後の1955年米シンフォニー・オブ・ジ・エアー来日公演まで待たねばならない。僅か60年前まで日本人は弦中心オーケストラの奏でる重層的な音色、音圧、迫力を知らなかったのだ。
 日本は古来より大陸・半島経由の「単音文化」で来た。伝統楽器の作りも、謡、邦楽の様式も、すべて単音が基軸だ(ゆえに古来より通奏低音も和声も日本民族のDNAには刷り込まれてこなかった)。
 唯一存在したのはユニゾン(同じ音を大勢で歌う合唱)だ。古来、軍歌も、寮歌も、校歌も、肩を組んで歌うユニゾンだった。
 子供たち同士で歌を歌うとき「私が主メロを歌うから、ミッちゃんは3度上、ユキは5度上でお願いね」という歌唱法が我が国では出来ない。
映画「天使にラブソングを」を見ていて、聖歌隊の若い黒人女性たちは、なぜ初見の歌を数パートに分かれてハモれるのだろう、と感心するだけだった。なぜなら日本のアイドルグループの新曲A面はユニゾンが不文律だったからだ。(注・キャンディーズが「暑中お見舞い申しあげますう~」、ピンクレディが「ペッパー警部!」と歌う箇所には若干のハモリはあったのだが)。
 ジャニーズグループは総帥ジャニー喜多川さんが「ボクはユニゾンが大好きなんだ」と一貫して好みを貫いてきたから仕方がない。ましてダンスをしながら歌うスタイルだから息を切らさない、音をはずさない、ことに主眼が置かれてきた。
 しかし、そうはいっても、世界標準に進化するために、アイドルグループもボーカルが2人以上いる場合は、そろそろハーモニー力を身につけるべきだ。これも小学校の音楽教育からしか始まらない。絶対音感が6歳までに獲得しなければ永遠に身につかないように・・・。
ツインギターのロックバンドで2台のギターが同じメロディを弾いているようなユニゾン歌唱の無様さは、もう卒業しなければならないだろう。韓国ではJ-POPの限界と蹉跌に学んで、アイドルたちは18歳で音楽大学に入り直し、理論と発声を基礎から学んでいる。だから韓国ミュージカルは大学路(テハンノ)の小劇場の無名の俳優たちでもあんなに声が通りハーモニーが崩れないのだ。発声とハーモニー。J-POP再興に文科省の責は重い。