通りすがりの三国人はブログを作ったようで | 誰かの妄想

通りすがりの三国人はブログを作ったようで

執念だねぇ・・・


じゃ、そっちでがんばって勝手に差別活動でも何でも自己責任でどうぞ。
こっちは、もう一度コメ禁にしとくのでww


しかし、最近じゃ相手のブログに暴言を繰り返してコメ禁になることを、


「さてさて、scopedogというサヨクブロガーに絡まれているわけです。」


と表現するのか?斬新な表現だね。


http://ameblo.jp/sinesayoku/entry-10102950816.html#cbox

sinesayoku
「死ね左翼」?


いやまあ、どんな名前をつけようが勝手だけど。


「この公私共に極限に忙しい私にからむとは、迷惑な話です。清清しい春の中、友人や家族と交流を深め、自然に触れ充実した時間を過ごしていたわけで、黴臭いサヨクブロガーの事などすっかり眼中にありませんでしたわ。」

ネトウヨの脳内視点だとそう見えるわけか。

暴言と差別発言をわざわざ他人のブログにコメントつけといて、そういえる神経はちょっと驚き。



(李人稙の密使としての行動が)

>7月といっていますが、あれ?12月以前じゃないの?


バカにはわからないようですが、
「日本へ併合を最初に打診したのは朝鮮側だった。という事実を直視する様に。」
と主張する以上、打診以前に、日本政府が主体的に併合方針を決めていたなら、韓国併合の主体的な責任が日本にあることになりますから、1909年7月(日本が韓国併合方針を閣議決定した月)以前の密使でなければ意味がありません。


そのくらいわからんかね?


>明治39年1906年には既に韓国併合の立役者達の間を動き回っていたとの明確な記録ですね。


あのねえ、日本を併合を打診するための行動じゃなきゃ、意味がないよね

だって
「本音を隠したままの日本側に対し、まず合邦を打診したのは朝鮮側だった。(略)李人稙(イ・インジック) が密使として動いたのだ。 」
が問題なんでしょ?
吾輩の家に遊びに来て、好んで学問上の話をした」ら、「併合してくれ」と言ったことにされるの?
すっげー言いがかり。


>ちゃんと調べれば合邦問題なんてのは一進会が1905年11月5日に「外交権を日本政府に委任し日本の指導保護を受け、朝鮮の独立、安定を維持せよ」という宣言書を発表して以来、ああでもないこうでもないと取り沙汰され続けている訳です。


合邦問題が1905年からだと主張してますが・・・

彼はちゃんと文章を読んでるんでしょうか?
1905年の一進会の主張は「朝鮮の独立、安定を維持せよ」です。
合邦とも併合とも一言も主張してませんね。


ホント大丈夫か?


合邦の声明書を出したから、合邦問題が起こったわけです。「独立、安定を維持せよ」と言って合邦問題が起こる分けないでしょう。バカですか?


あとさ、
李完用とその懐刀がマスコミ等に監視されて身動きが取れないので代わりに李人稙が小松緑の所に「併合への思い」を伝えに来ていたりしていたみたいですが」

と書いてもいない「併合への思い」を読み取るのはどうかと思いますね。


あとは何?ベルツの話か?

>さて、このscopedog ですがベルツの日記まで持ち出して色々被害妄想を展開させている訳なのですが、ベルツは日記の巻末でこのように日本の朝鮮統治を賛美している訳です。


はい、日記の巻末じゃなく、伊藤博文に対する追悼文ですね。ベルツは伊藤に色々世話になっており仲もよいので、追悼文でほめるのは当たり前。
ベルツがそういう立場であること、朝鮮の腐敗についても言及していることも、述べた上で、そういう者の視点からでさえ、帝国主義的なやり方に対して批判的であること示したエントリなんですけど、ネトウヨには理解できないか。

ベルツでさえ、
「親日感情の最後の残り火まで、日本人が自身で踏み消してしまうのだ。」
と感じた、ということ重要なんですが、どうしても

「日本へ併合を最初に打診したのは朝鮮側だった。という事実を直視する様に。」

と主張するネトウヨには受け入れがたい事実のようですね。
都合の悪い部分は「どーでもいい未開の三等国の記述」として無視するようです。



あとですね。
しかし筆者は、三回この韓国を訪れて、したしくその事実を確かめたのである。一昨年伊藤侯から、その改革を見て欲しいといって、韓国へ招かれたとき、残念ながら筆者は、その志に沿うことが出来なかった。しかし、そのときの話しぶりから、すべて韓国民とその国土の隆盛を目指す幾多の改革がすでに実施されたこと、なお多数の慎重な計画があることを、筆者は明らかに知ることが出来た。」(ベルツの日記「伊藤博文をしのぶ」P415)


ここでベルツが言っている三回韓国を訪れた、というのは、1905年以前の話です。なぜなら、ベルツは1905年に一度ドイツへ帰国しており、その後、1908年まで、来日していません。そして1908年の来日の際、伊藤に誘われたけども「韓国へ招かれたとき、残念ながら筆者は、その志に沿うことが出来なかった」つまり、韓国に行っていないわけです。

要するに、ベルツは統監政治時代の韓国を知らずにこの追悼文を書いているわけです根拠は伊藤博文の「そのときの話しぶり」にすぎません。ネトウヨのよく言う伝聞証拠です。うがった見方をすれば、伊藤博文が自分の統監時代の成果を自画自賛で語り、ベルツはそれを真に受けた、と言えます。
少なくとも、韓国民がひどい目にあっていたとしても、伊藤がそれをベルツに伝えたとは考えられませんね。


>第3者であるイギリスの外相ランズダウンも
>「韓国は日本に近きことと、一人で立ち行く能力がなきが故に、日本の監理と保護の下に入らねばならぬ」

日英同盟を結んでいて、日露戦争のどさくさでチベットに攻め込んでラサ条約を強制したイギリスの外相が第三者?
その発言と同じことをイギリスはチベットに対して行ったわけだけど、それ理解してる?
大体、ベルツの日記でも、イギリスとチベットの話を日露戦争に絡めて言及しているのだがなあ・・・。


>何かと思えば、耕作不適切な荒地の開墾じゃんか・・・単に未開な禿山だらけの朝鮮の農地化・発展に寄与した美談に過ぎないと思うぞ、これ。


「耕作不適切」とは一言も書いてないので、通りすがりの三国人の脳内補足ですね。
しかし、ネトウヨは韓国人が対馬の土地を買っても問題視していたはずだがなあ・・・。
それとは比較にならない広大な土地を、日本人が買うことについては正当化するってのはダブルスタンダードだねえ


ま、なんと言うか、レベル低すぎるよ・・・