『生命の實相』新修版第一巻序より再録

 

(1)人間無病の原理


 

 

宗教の自由が叫ばれ、それが認められるようになってから、ある種の術を施して病気を治す所謂(いわゆ)る「霊術的宗教」の中には、意識的なると無意識的なるとを問わず、一種の催眠術的暗示によって信者を永久に自己の奴隷として屈従せしめてしまって其の宗教から脱退することに恐怖心を感ぜしめるに到らしめるものが多いのである。

 

 

 

しかし、かかる宗教は、その名称は「宗教」と云われているが、一種の「人格侵害(しんがい)」又は「人格の独立性蹂躙(じゅうりん)」を行うのであって、それが宗教として甘んじてその横行が許されているのは、

 

 

 

其の取締当局が「宗教とは、人間内在の神性、佛性を開顕して、大宇宙の生命と一體なるところの無限性及び自主性を自覚ぜしめるものなり」と云う根本定義に想到せず「医者以外の方法で病気が治るのが宗教だ」とか「何でも信ずるものが宗教だ」とか漠然と考えているから、

 

 

 

どんな事でも人を信ぜしめて人を集めさえすれば、そしてその信じた人たちが運営する結社をつくって登記さえすれば、直ちに宗教法人となると云うのであるから、凡ゆる心霊療法やプラナ療法や催眠術は「宗教」と登記して、税金をまぬがれたり「信仰は自由なり」の標語の下に百鬼夜行の現状を呈するようになったのである。

 

 

 

しかし法人は登記によって成立するが、宗教と云うものは登記によって成立するものではなく、その内容によって成立するものだと云うことを知らなければならないのである。



すべての癒す力は自己に宿る「生命」から来るのであり、他から来るのではない。他に頼るものは自己を視(み)ないものである。生命は自己に宿る神であり霊であり、物質ではないのである。生命はその主観的道具として霊智心を、知性を、感情を、意慾を、想念を、本能を使用、客観的道具として肉體を使用するが、その道具には色々の分限(ぶんげん)があるのである。

 

 

 

それらのものは道具として或る働きを有するが「生命」がそれに働く力を与えないときにはそれは何の働きをもあらわすことが出来ないのである。それは主人公から食物を与えられないで餓死しているシェパードのようなものである。然し「生命」がそれに働く力を与えている限りは、これらの肉體や心はシェパードのように主人公(生命)と独立した働きをあらわすことが出来る。
 

 

 

しかしこれらの「道具」であるところの肉體や想念が、みずからの独立性のゆえに、主人公(神又は生命)を忘れ、みずからを主人公の意識に反して動き出すことがあるのであります。キリストが放蕩息子(ほうとうむすこ)の譬え話をもってしたのは主人公を忘れ、自分の我の心で勝手なことを想念するこれらの「道具」のことを述べたのである。

 

 

 

道具が主人公の指導のもとに働かないで勝手気儘(きまま)でいる限りは、自滅するほかはない。それが病気である。すべての道具であるところの「心」及び肉體は主人公(神の心、實相心)の前に無条件降伏しなければならない。絶対無条件に従順に神の前にひれ伏してしまうとき病気は治る。

 

 

 

すべての病気は、「道具」であり「従僕」であるところの肉體や、それを操作する色々の従僕たる「心」が、神(生命)から離れて自治独立してしまった結果である。従ってすべての病気は神の前に無条件に降伏し、神の統治が完全に行われるようになったとき自然に消滅するのである。それ以外に真に病気の根治(こんじ)する道はないのである。

 

 

シェパードがシェパードを呼び、路傍で拾った物質的又は精神療法と云う食物を互いに分け合っている間は、主人公から食物を貰わないでも兎も角も生きているように見えるであろうが、やがては本当に主人公(神生命)から食物(生きる力)を頂かねば生きられない時が来るのである。そして主人公に無条件降伏するほかに道がないことを知るのである。イエスは「僕(しもべ)は主人の為すことを知らざるなり」と教えているのである。

 

 

神の「智慧」神の「生命力」神の「癒す力」以外のものに頼ろうとする心は、それは宗教的ではないのである。(無論医療を行っても神の智慧に導かれてその医療が行われるならば宗教的である)精神療法も、心霊療法も、物質療法も、それが、人間神の子の自主独立の自覚を失わしめ、神以外の他人又は他物に頼らねば生きることが出来ないと思わしめられるような状(すがた)で行われるとき、それらの療法で一時病気が治ると云うことは、自己内在の神の自覚を進める上からはマイナスだと云わなければならないのである。

 

 

人間は肉體が一時なおってもやがて肉體は死すべきものであるから、一時的の功利で、自主独立の人間神の子の自覚を失わしめるようなことになると、大変な損失になるのである。物質的方法や、いかがわしい呪術的施法によって病気が治るなどの事は、人間尊厳の自覚を、物質と暗示のまえに降伏せしめてしまったことになるのである。
 

 

 

キリストは「我を信ずるものは永遠(とこしえ)に死なず」と云ったのである。この「我」と云うのは二千年前ユダヤ人として生まれた肉體イエスのことではないのである。「自覚されたる我」すなわち「内在神性」の無限性を信ずる者は永遠に死なないと云う意味である宗教の目的とするところは、やがて死ぬ肉體を一時的のみに癒すと云うことではない。「永遠不死の自己」を再発見せしめることであらねばならない。

 

 

 

この「永遠不死の自己」の再発見に伴う付随現象として、肉體の病気も治るのである。大體、宗教家のところへ来て「肉體の病気を治してくれ」と云うのも間違いであるし、又宗教家が「それではお前の病気を治してやろう」と云うのも変な話である。

 

 

 

キリストは「汝の生命(いのち)に就(つ)いて思い煩(わずら)うこと勿れ」と教えているのである。「肉體のことについて思い煩うな。」「何を食い、何を飲まんと思い煩うこと勿れ」これが宗教であらねばならない。

 

 

「地上の生命(いのち)のことについて思い煩うな。」このイエスの教をそのままに受け入れたとき、念が解放されるのである。念の解放によって「念の凝(こ)り固まり」によって起っていた病気が消える。治そうと思うものは却(かえ)って治らず、治そうと云う心さえも放ち去って心が自由自在になったとき病気がないのである。 

 

 

人間を単なる「物質的存在」だと考えたり、物質の中に心と霊とが宿っていると云う考え方は人間の霊性の絶対尊厳を自覚しないことを暴露しているのである。その霊的尊厳の自覚の欠乏が、あらゆる病気の原因となっているのである。だから自己の全身を霊々妙々完全なる霊的存在だと観ずる「生命の實相」の真理に徹底すれば病気が随伴的に治っても不思議はない。

 

 

 

併し「病気を治そう」と云う前提で、本書を読む場合には、心に病気をとらえていて「この病気を如何にせんや」と精神統一ずることになるから却って効果がないことがある。私は諸賢がただ無我になって、「然り、然り」と頷(うなず)くような気持ちで、あまり小理屈を思い浮かべることなしに一応全巻を讀誦(とくじゅ)せられんことを望むのである。

 

 

本書は約二〇年前に初版を出したものだが、その間に無数の難治症が全快したと云う治験の禮状を受けた部分である。實相は不変であるから今も書き直す必要を私はみとめなかった。唯、記述中に出て来る人物の中には、境遇の変った人もあるから、「先日」とある処も「或る時」と直したり、「何々をしている人」とあるのは「当時何々をしていた人」と云う風に直したりした。

 

 

 

が、そのほかには、最近の医学の発達と抗生物質の発見について言及した点が全く新しいのである。尚、「七つの光明宣言」は現在生長の家教団の宗教法人規則に搭載されているものとは、多少異なるが、創刊当時の宣言を保存して置くことは歴史的由来を明らかにする上に必要であるから、当時のままにして加筆しなかったのである。

 

 

昭和二十七年八月ー日

 

 

 

 

谷口雅春著「人間無病の原理」

 

 

 

 

☆今まで 「私の日本憲法論」を読んで頂き有難う御座いました。 今日からは「人間無病の原理」を掲載させて頂きます。宜しくお願い致します。

 

 未だにコロナ、コロナとテレビ等は宣伝して国民に恐怖を与えています。この本を読んで頂ければ恐怖心は消え、コロナ恐れる必要が無くなります。又読んでいくうちに治したい病気は治らず忘れていた病気がいつのまにか治っていたりとか?笑!そういう事が何故おきるのか、今日の中にも書いてありましたが、当ブログを読んで頂いているうちに病気や値上げや色々の現象に恐怖する事なく唯感謝!感謝の生活が送れるようになります。これからも宜しくお願いします。