[紹介] 「江戸のモノづくり研究会」のメール会報に寄せたエッセー(2008年)。2008年に書き殴っていたもののひとつ。


以下、本文。


関孝和と源義経(!?) 関孝和没後300周年によせて


佐藤賢一


 一人の人間が没して、その後に経過していく時間を考えてみる。ごくごくささやかでありふれた人生を送った人の記憶が、後の世に留まっていられるのは果たしてどれくらいの時間であろう。家族の思い出ですら情け容赦なく、記憶は時の風化にさらされていく。数十年というわずかな時間でさえ人の記憶をつなぎ留めるのは難しいと感じてみると、中国の古諺が「豹は死して皮を残し、人は死して名を残す」と述べている強烈なまでの個人的な「歴史意識」が、決して尋常のものではないことが分かる。



 今ここで話題にしようとしている関孝和は、ちょうど300年前に亡くなった人物である。一口に300年と言っても、誰もそのような時間を生きられるはずもない。直接彼を知る人が当然いるはずもなく、歴史の彼方から連綿と継承されてきた記憶に基づいて我々はこの人物のことを語ろうとしている。先の格言にならえば、関は名を残した人ということになるのであろうが、意外なことに、生前の関は今と比べてほとんど知名度はなかった。むしろ彼が没した後、時間が経過するほど著名になっていったという、まさに「歴史上の」人物なのである。



 今でこそ関孝和は、江戸時代の数学(和算)を世界的なレベルまで高める研究をしたということで知られているが、意地悪な言い方をすれば、そのこと以外に我々は関孝和のことを何か知っているだろうか、と問い直してみると、ほとんど何も知らないというのが実状である。それでは、さらに関のことを歴史的に探索しようとした場合、彼が生きていた時代に本人が残した「生」の資料を求めればよいのではないか? 有り体に答を言ってしまえば、ほとんど絶望的なまでに関孝和に関する資料は無いのである。



 関孝和、通称新助。没年は宝永5年(1708)であるが、そもそも生年が分からない。つい最近まで俗説として流布していたのは、「関孝和1642年誕生説」であるが、これは明治期の和算家の生き残りが口から出任せに、関孝和と万有引力で有名なニュートン(1642 - 1727)を同い年にしてしまったことに端を発する、信じられないような妄説である。戦前まで一部の日本人は、関孝和と世界的な数学者であるニュートンが同じ年に生まれたということを、ともかく手放しに喜んでいた。(……と、このように書く本人も、何か虚しさを覚えている。)



 関のことに話を戻すと、彼は元々内山氏の次男として生まれたとされている。「されている」と頼りなげに書いたのは他でもない。系図資料として今に残されているのは、関が没してからほぼ一世紀を経てから編纂された『寛政重脩諸家譜』に記されている情報ばかりである。幕府が編纂を命じたこの系譜集は、譜代大名をはじめ、御家人に至るまで、各自がその情報を提出したことでできあがったが、関の実家である内山氏もまた情報を提出している。しかし、そこには驚くような記述が含まれていた。詳細を省いて本質的なことだけを述べると、関孝和には兄一人と弟二人がいたが、この系図が述べるところでは、関の末弟は実父が亡くなった数年後に生まれたことになっている。どうしてこのような矛盾が生じたのか。関の兄に当たる本家筋と末弟が興した分家筋が共に独立した系図情報を提出したのであるが、両家の記載にそもそもの食い違いがあったのである。今現在も、どちらの情報が正しいのかは分からないままである。



 それでは関本人の系図情報は無いのかというと、これも全く無いのであるから、歴史家としてはもう八方塞がり、お手上げと宣言せざるを得ない。そのようになってしまった理由が、関には申し訳ないけれども、あまりにも情けない。



 関孝和が迎えた養子(実の甥)はたいそう身持ちが悪く、甲府勤番として赴任していた甲府城下で博奕を打ったことが露見して、即刻お家断絶になってしまったのである。それがために、関孝和に関する資料や情報類はその時点で散逸してしまったと考えられている。



 関孝和の研究した数学は、しばしば、「西洋の微積分に匹敵する成果を挙げた」と、まことしやかに説明されることもある。念の入った解説だと、関の主著『発微算法』(1674年)は初めて日本で微積分を展開した、とも述べられている。これはおそらくタイトルの「発微」という語から「微分」を連想した早合点だと思われるが、事実は全くそのようなことはない。(蘭学の書誌をご存じの方は、大槻玄幹の著書に『西音発微』(1820年)という著述があるのを思い出されよう。これが微分・積分の本だとすると、噴飯モノである。そもそも「発微」という語は、自分のわずかな了簡を開陳するという謙遜の語、「寸志」の同義語である。)この『発微算法』という本は、関孝和が生前刊行した唯一の著作であるが、わずか15問ほどの数学の問題を解いた解答集である。確かにその解答を子細に見ると、関の能力が当時の数学のレベルから突出していたことが見て取れる。これは間違いのないことである。



 だが、歴史は時に皮肉な演出を仕組むものである。


 この15問の解答中、関孝和は1問だけ、初歩的なケアレスミスを犯していた。中学生程度の数学の式変形で、彼は間違っていた。筆者は学生時代、『発微算法』の内容を再確認していてこの間違いの記述に遭遇したのだが、まさか関孝和ともあろう数学者がこの程度の間違いをしていたとは当初、自分の目を信じられなかった。しかも、関孝和ほどの著名人の著作をこの300年近く、誰も再検討せずに傍観していたとは思えない。ところが、意外にも『発微算法』の誤りはどうやら筆者が「再発見」してしまったらしい。隠しておきたかったに違いない誤答を21世紀人がほじくり返してしまい、泉下の関先生には申し訳ないことをしてしまったが、歴史家という職業はつくづく因果なものと自嘲するより他はない。関が犯してしまった誤答の顛末に関して附言すると、『発微算法』の刊行された後にその解説本である『発微算法演段諺解』(1685年)という本が弟子の建部賢弘(1664-1739)の手によって刊行されている。こちらの本には『発微算法』の原文(但し、誤答部分は訂正済み)の他に、詳細な解説が付されていた。これまでほとんどの人たちはこちらの解説書ばかりに注目し、原本の『発微算法』の方は顧みていなかったのである。歴史研究における「原典回帰」の重要性を痛感させられた一事であった。



 かくも情報が希薄な関孝和。誰もが分かったような振りをさせられていて、読まれることすらほとんど無かった主著『発微算法』。辛うじて判明していることをつなぎ合わせると、次のような一文が記せる。


 関本人はその生涯の大半を甲府徳川藩士の勘定方の役人として送っている。ただし甲府が任地ではなく、江戸詰であった。その住まいは「天竜寺前」(現・新宿四丁目付近)であったことが当時の分限帳の記載から判明する。どんな仕事をしていたのかと言えば、同僚藩士の俸禄管理や検地業務の監察などであった。(いずれも関連資料の存在が知られている。)どちらかといえば、数学者と言うよりも地味な小吏の役柄が、関のイメージとして浮かんでくる。



 そのような関の周囲にも、何名かの数学者の弟子がいたようである。(ちなみに、同時代の儒学者・政治家として著名な新井白石は、その甲府藩時代、関孝和の同僚としていた一人である。)一番有名な弟子は、旗本の家柄であった建部賢弘。その兄の賢明(1661-1716)も関の弟子であった。賢弘は後に八代将軍吉宗にその能力を買われ、暦学に関する諮問や日本地図作製にあずかって重用されることになる。


 この建部兄弟のいたことが関にとって幸運だったのは、彼の数学の成果が後代に継承されるきっかけを創ってくれた、まさにその一事に尽きる。大著『大成算経』全20巻(1711年頃)は、関孝和と建部兄弟が協力をしてできあがった和算書で、当時の彼らの数学の成果を余すところなく網羅している。そして建部兄弟の兄である賢明には、歴史に対してもう一つ貢献した事柄がある。それは『建部氏伝記』(1715年)という建部家の詳細な家譜を執筆してくれたことである。


 この『建部氏伝記』は、近江に源流を持つ建部氏の由来をまとめた記録で、執筆者の賢明・賢弘兄弟の世代にまで筆が及んでいる。この記録の中に、建部兄弟と関孝和の間柄がわずかではあるが記されている。それはわずか数語であるが、やはり貴重である。賢明は自らが関に入門した年代と、『大成算経』の編纂過程を述べているのである。


 ここで、歴史の偶然によって引き起こされたこの記録に関する「事件」を紹介したい。



 そもそも建部賢明がこの『建部氏伝記』を執筆しようとした動機がここでの問題となる。個人的な動機といえばそれまでなのだが、しかしそれは激烈なまでの熱情にほだされての執筆だった。建部が自らの系譜を語った背景には、当時巷に流布していた偽系図情報に対する反駁の意図が込められていたのである。


 当時、澤田源内という稀代の偽系図書きが一世を風靡していた。人様の偽系図ばかりではなく、自らの出自をも詐称していたこの人物は、その博覧強記ぶりを武器に、かなりの数の偽書を世に送り出していた。彼の主著(?)の一つに『江源武鑑』という一大偽書がある。自らの出自を戦国大名六角氏の末裔と称する澤田が、その主張を真実らしく見せるために種々の情報源から切り貼りして近江一国の史実を捏造した大著である。あろうことか建部氏の身内に、その系図情報を澤田に提供して利用されていた者のいたことが、賢明に衝撃を与えたのである。このときに正確な家譜編纂の必要性を自覚した、と賢明は『建部氏伝記』の中で述べている。


 澤田源内の書いた偽書はかなり後世にまで影響を及ぼしている。『倭論語』という著作も彼の偽書であるが、これなどは心学の祖・石田梅岩が絶賛して門下に推奨した著作となっている。澤田は、とことん罪作りな、そして人騒がせな男であった。彼が創作したストーリーの出色は、何と言っても「源義経伝説」であろう。ある一時期の日本人にもしかしたら本当か?……、と思わせた「源義経=ジンギス・カン」説も、大元を辿っていくと、どうやらこの澤田源内の筆(『金史別本』という著述)にたどり着くらしいのである。


 筆者は建部兄弟の事蹟を追跡し、この『建部氏伝記』を読み解く過程で澤田源内についても知るところとなった。そして建部賢明の別の著作である『大系図評判庶中抄』が丸々一冊、澤田源内に向けた弁駁の書であったということもこのときに知ったのである。


 知れば知るほど澤田は、全くむちゃくちゃな男であった。美少年であったのをよいことに、各地の権門に近づいては悪事を繰り返し、挙げ句の果てには偽の系図を提出して水戸家に士官を企てたものの、事が露見して逐電してしまったらしい。(なお、澤田本人は元禄元年に京都で天寿を全うしている。このことも建部賢明をいたく憤慨させている。)


 さらに話は現代にまで及ぶ。筆者が愕然としたのは、その一大偽書『江源武鑑』が1974年、名著出版から堂々と翻刻されていたことである。古書店でその存在を知って大層躊躇った後に、あくまでこれは研究資料である……、と自分に言い聞かせて購入したものの、さすがに天下を惑わせた偽書に5万円もの値段を出したことは、我ながらバカバカしさを突き抜けて爽快感さえ覚えてしまった。その翻刻の宣伝文句に「近世初期の近江國の動静を知る根本史料」とあったことも、その気分に拍車をかけていた。今に至るまで、澤田源内の呪縛はかくも強烈なのである。


 だがしかし、澤田源内という男の妄想が生んだ源義経伝説やら戦国大名の末裔説などのごとき一大ストーリーも、大きな歴史の流れの中にこれらを置いてみると、副産物として建部賢明の『建部氏伝記』や『大系図評判庶中抄』を生み出したことになる。皮肉なことに、筆誅を下そうとして建部賢明が批判を書けば書くほど、澤田の名前は後世に残ることになってしまった。そもそも、誰あろう、現在残っている一番詳しい澤田の伝記を『大系図評判庶中抄』として書いてしまったのが建部賢明本人であったという、笑うに笑えない事実がある。一方、おかしな話であるが、建部賢明が澤田の所業に激昂し、一連の記録類を残すことがなかったならば、我々は貴重な関孝和に関する記録を永遠に知ることはなかったことにもなる。このあたり、「史実」を追う歴史家としては複雑な心境である。


 関孝和と源義経(!?)、歴史上あり得ない、意味不明の人物の組み合わせである。だが、澤田源内という稀代の詐欺師の口を借りると、源義経は蝦夷地に渡ったことになり、澤田に筆誅を下さんとした建部賢明が結果として関孝和の記録をも残している。このような時代設定が生んだアクシデントとして見れば確かにこの二人、並べて語ることができないわけではない。冒頭の話題、歴史に「名を残す」ということにかこつけて言えば、悪事に名を残した澤田源内、数学の才能で名を残した関孝和、いずれも建部賢明の筆に負っていたという結末になろうか。あるいは、「嘘から出た真」というのはこのようなことをも言うのかもしれない。



 関孝和が没して300年。真偽綯い交ぜとなった情報はいたずらに錯綜しつつ、ここまでの時間が流れてきた。さらに100年後を期し、何かしら新事実を将来の歴史家が明らかにしてくれることを祈りつつ、この駄弁を締めくくりたい。



※ここで採り上げた澤田源内の活動や著述については、今田洋三『江戸の禁書』(吉川弘文館、1981年)が詳しい。また、NHKの歴史番組のダイジェスト本、『歴史発見 5』(角川書店、1993年)にも詳細が述べられている。